リーグ戦が再開した途端につまづき気味のベイスターズ。ファンも「交流戦、もう少し勝てたよねえ」という思いを抱えての連敗だからモヤモヤもひとしおなのだが、下ばかり向いていても始まらない。6月末にこんなイベントが開催されるのをご存じだろうか。
6/28(火)~30(木)『I☆YOKOHAMA SERIES』
https://sp.baystars.co.jp/news/2022/06/0610_03.php
そう、今年はベイスターズと横浜F・マリノスが共に30周年。28日~30日の阪神戦はコラボユニフォームを着用するというのだ。
大洋時代からのファンにしてみればベイスターズ誕生なんてつい先日の感覚だけど、30周年となるとそれなりに歴史の重みを感じる。と、いうことでベイスターズ1年目の1993年、チームに何が起こったかを筆者目線で振り返ってみたい。93年というとオールドファンは真っ先に「主力6選手解雇事件」を思い浮かべるが、これはあまりにインパクトが強く、球界を揺るがす出来事でもあったのでここでは触れない。また斉藤明夫引退、野村弘樹最多勝など良く知られているところ以外の重箱の隅をつつくようなエピソードベスト10、行ってみよう!
筆者目線で振り返るベイスターズ初年度のエピソードベスト10
10位 清水義之、西武にトレード
須藤豊監督が正三塁手に抜擢。毎年春先に打ちまくり、91年6月、伝説のサヨナラインフィールドフライ事件のきっかけとなる打球を打ち上げた陽気なお祭り男だが、92年から出番が減り、93年開幕直前に森山良二、中村日出夫とのトレードで西武に移籍。だから筆者には清水がベイスターズのユニフォームを着ていたイメージがない。
88年のパ・リーグ新人王の森山はこの年、ローテーションの谷間に先発するなどまずまずの活躍。前年二軍で24本塁打を放った中村は結果を残せなかった。一方の清水は西武で守備固め、代打要員で地味に活躍しリーグ優勝に貢献。ヤクルトとの日本シリーズに出場した時は「清水が日本シリーズで打席に!!」とテレビの前で思わずはしゃいでしまった。
9位 畠山準、オールスター初出場
元甲子園優勝投手で、打者転向後にホークスから移籍してきた畠山準。翌92年は10本塁打と徐々に実力を見せ始めていたが、この年ついにブレイク。128試合で打率.281、14本塁打、72打点。オールスターゲームにも出場し、ベイスターズ黎明期を代表するプレーヤーに。初の規定打席到達も果たしたが、投手としても84年に規定投球回数(153.0イニング)を投げており、規定投球回到達と規定打席到達の両方を達成したのはドラフト制度導入以後で畠山が唯一である。
8位 盛田、谷繁、進藤、石井琢、CDジャケットで満面の笑み
球団歌が『行くぞ大洋』から『熱き星たちよ』へと変わると共に、イメージソング&応援歌として『横浜Boy Style』、『WINNING』が作られた。歌うはアイドルグループCOCO。若手の主力である野村、佐々木主浩、盛田幸妃、谷繁元信、石井琢朗、進藤達哉もバックコーラスに参加したのだが、注目はシングル盤CDジャケット裏の集合写真。クールな表情の佐々木、野村と比べ、盛田、谷繁、進藤、石井琢の笑顔が最高なのである。特に進藤と琢朗の少年感!
7位 15年ぶりの川崎球場ホームゲーム、幻に。
かつてのホームグラウンド、川崎球場。半ば強引に横浜へと移転した歴史的経緯もあり、横浜大洋初年度の78年に公式戦で2度主催試合を行った以外は疎遠になっていたが、ベイスターズとなったこの年、15年ぶりにホームゲーム(8月6日阪神戦)が組まれた。オールドファン注目の川崎外旋の機会だったが、運悪く雨天中止。代替試合は横浜で組まれることとなった。川崎ではその後94年オープン戦と、プロ野球ラストゲームとなった2000年の横浜vs千葉ロッテオープン戦で主催試合を行っている。
6位 オデオンに球団直営ショップオープン
「オデオン? どこそれ?」となるのも無理はない。馬車道からイセザキモールを進み、ユニクロの先の大きな交差点の角にある伊勢佐木町のドン・キホーテ。あそこは昔、映画館や古本屋、飲食店などが軒を連ねる複合型ショッピング施設で(現在もビル名はニューオデオン)、その1階にプロ野球初の球団直営ショップとして〈ザ・ベイスターズ〉が4月にオープン。開店日には近藤昭仁監督と宮里太選手会長がテープカットをし、友利結、斎藤隆らがサイン会を行った。
昨今のハマスタのショップの充実ぶりを思うと球場から15分も歩くオフィシャルショップというのは隔世の感があるが、当時はそれなりに通った記憶がある。とはいえやはり不便なのは否めず、その後関内駅前のセルテに移転したのはご存じの通り。