6月19日、日曜日の早朝、一通のメッセージが届いた。
「日本に帰ることにしました」
パドレス傘下の3Aエルパソ・チワワズを退団し、FAとなった秋山翔吾からだった。荷物をまとめ、エルパソからロサンゼルスに向かう道中のこと。距離にして800マイル(約1300km)を超すロングドライブの道すがら、一報をくれたのだった。
秋山翔吾のメジャー挑戦が、終わった。
寝起きで冴えない頭のまま、帰国の決断を知った。
秋山にとってはまさに激動の4ヶ月だった。今年初めはMLB機構と選手会の労使交渉がまとまらずロックアウトが続き、渡米の目途も立たなかった。2月に予定されていたスプリングトレーニングは開始が3月にずれこみ、開幕も3月31日から4月7日に遅れた。
シンシナティ・レッズとの契約最終年を迎え不退転の覚悟で挑んだシーズンだったが、短縮されたオープン戦期間ではアピールに足る結果を残せず、開幕直前の4月5日に開幕ロースター入りを逃し退団。
そして、4月30日と自ら期限を定めて模索したアメリカでの契約は、諦めかけたところに一転、パドレスからのオファーが舞い込み5月9日に合意。傘下の3Aエルパソ・チワワズでメジャー昇格を目指しプレーを続けることになった。
しかし、契約時に決めたメジャー昇格の期限、6月15日までにそれが叶わず再びFA。秋山にとっては今年2度目のFAだった。
マイナーで印象&数字を残した1ヶ月
アメリカでの契約を完全に諦めたわけではなかったものの、代理人からは「数日待ってオファーがなければ、待ち続けても状況は変わらないだろう」と言われた。
開幕から3ヶ月近く経ち、トレード期限も来月に迫るこの時期に至っては、4月のように悠長に待つことはできなかった。早く区切りをつけて、グラウンドに立ち、プレーをしたい思いもあった。
数日後、代理人からオファーがないことを聞いて、今回、すぐに帰国を決意した。
思えば、激動だったのは何もこの数ヶ月に限ったことではない。移籍初年度は新型コロナウイルスの影響でスプリングトレーニングが中断、シーズンが短縮された。去年は家族が不慮の事故に遭い、自身も故障に見舞われた。そして、今回の契約期限前にはコロナにかかる災難もあった。2年と少しの間とは思えないほど多くのことに直面してきた。
多くの困難に直面しても、秋山はすべてを受け入れ言い訳はしなかった。不運とも言いたくなかった。
そんな中、マイナーの契約を得てからは結果を残し続けた。
5月11日に8番センターでデビューすると、最初の打席でタイムリー。さらに出場3試合目でホームランを放つと、続く試合では1番に入って3安打3打点の活躍。デビューからの出場10試合連続安打、延長での勝ち越しタイムリーなど、印象的な活躍が続いた。
16試合で打率.343(70打数24安打)、3本塁打、21打点、2盗塁。数字から見ても、何の不足もないだろう。