ホームランの後の“デスターシャ”を始め、勝利後マウンドに集まった選手たちのハイタッチ、三浦大輔監督が勝利インタビューを受ける背後に響く選手たちの雄叫びetc。今年のベイスターズでよく観られる光景には、ベンチの雰囲気の良さが表れている。

 みんなで力を合わせて鯨を獲るマルハ大洋漁業、ホエールズのルーツからも、伝統的に仲良しのイメージが強いベイスターズ。それ故か大洋時代はトレードで積極的に戦力を補強する動きは少なく、「おおっ!」と思える選手が加入することはあまりなかった。横浜大洋期前半で言えば基満男、若菜嘉晴、加藤博一、レオン・リーぐらいだろうか。

「大洋の久野球団社長に新浦さんを売り込んどいたから」

 そんな大洋が大胆に戦力補強を計ったのが1986年末の古葉竹識監督就任時。西武初優勝の立役者片平晋作、左殺しの永射保を獲得。さらには巨人と韓国プロ野球で大活躍した新浦壽夫が加入したのである。その当事者である新浦さんに、韓国球界から大洋に加入した当時のことを振り返ってもらった。

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「サムスンライオンズにいた86年、持病の糖尿病が悪化したこともあって、韓国の生活もそろそろだなという思いがあったんです。シーズンを終えて日本に帰国し、11月いっぱいでサムスンとの契約期間は終わり。さて、どこかの球団からオファーがあるかな?と連絡を待っていました」

 韓国で新浦さんが残した数字はプロ野球の黎明期ということを差し引いても驚異的だ。1年目の84年は16勝10敗3セーブ、投球回数222、完投14、防御率2.27。2年目は実に25勝6敗、投球回数226、完投11、防御率2.79。そして3年目は途中離脱があったにも関わらず、最終的に13勝4敗を挙げている。時代背景的に当時は公表できなかった糖尿病を発症し、自らインスリン注射を打ちながらこの成績である。新浦さんが帰国後どこへ移籍するか。動向が大いに注目されていた。

「そんなタイミングで知人が“大洋の久野球団社長に新浦さんを売り込んどいたから”と連絡してきたんですよ。大洋とは何のご縁もなかったからびっくりしたけど、正式にオファーを受けて久野社長、古葉監督とお会いすると、すごく熱意を感じた。それで大洋にお世話になることにしました」

 新浦獲得の一報は大洋ファンに強烈なインパクトを与えた。絶対エース・遠藤一彦はいてもそれに続く先発陣が木田勇、欠端光則、大門和彦とみんな10勝未満。何とも心もとない中に大物左腕が加入する。“遠藤が最多勝を獲って新浦が2ケタ勝てば上位進出も夢じゃない”古葉監督就任と新浦加入は、それほど大きな出来事だった。

古葉監督時代の1987年に加入し、カムバック賞を受賞した新浦壽夫投手。遠藤不在の先発投手陣の柱になった。月刊ホエールズ87年9月号では表紙を飾っている。 ©黒田創

「あまり受け入れられてないなというのは感じました」

 かくして1987年2月、新浦さんはキャンプ地宜野湾に合流する。

「チームを強くしたいという古葉さんの意気込みは凄かったけど、大洋という球団のカラーは色濃く残ったまま。入ってみてそれは感じましたね。はっきり言って、川崎球場の頃の印象と変わらないんです。だから古葉さんも色々難しいだろうなと……。

 いい選手はたくさんいるんです。でも一人一人がお山の大将で、遊ぶときは楽しくやるけど、まとまるべき時にチームが一丸になれない。だから春先は調子が良くても夏場以降は決まってガタガタっと負けが込む。シーズン後半になるとコーチ陣が来年も球団に残れるよう根回しに走る。毎年そういうことの繰り返しだったように思います」

 そんなチーム内で新浦さんは、選手の間からどこか色眼鏡で見られているのを感じるようになる。

「出戻りの新浦はどこまでやれるんだ?という、品定めするような視線ですよね。ああ、あまり受け入れられてないなというのは感じました。でもこっちは古葉さんに頼りにされて入団したのだから、プロとしてやるべきことをやるしかなかった」

 シーズンが始まると、この年36歳を迎える新浦さんは期待以上の活躍をする。4月18日に復帰初勝利を挙げると、29日のヤクルト戦で完封勝ち。5月10日には古巣巨人を完封。調子の上がらないエース遠藤に変わって先発の柱で投げまくったのだ。