「田代だけが僕をチームに受け入れようと気を使ってくれたんですよ」
「本当は先発4番手ぐらいのポジションでいいんだけど、他に投手がいないから仕方ない。でも、さっき言ったように周りの目線があるから、チームではとにかく前面に出ないように振る舞っていたわけ。“俺は外様の人間だから”って。
でもある日、田代富雄が言ってくれたんだ。“新浦さん、そんな事言わずにみんなの輪に入ってください”って。田代だけが僕をチームに受け入れようと気を使ってくれたんですよ」
今なお巡回コーチとして選手にもファンにも愛される田代富雄。その人柄は、当時の新浦さんの心を解きほぐした。ましてや、当時の田代は長年のレギュラーを剥奪された微妙な時期である。そんな時でも見せるクジラのように大きな包容力。田代富雄の田代富雄たるゆえんである。
「まあ、それ以降も田代以外の選手とは心から通じ合う感じではなかったけど、嬉しいひと言ではありましたよ。それからはキャンプで田代が特打ちをする時には俺がバッティングピッチャーやるよって申し出て、気が付けば1時間以上投げたこともあります。田代もバテバテで“新浦さん、もう勘弁してください”って(笑)」
当時の新浦さんはスクリューボールなど7~8種類の変化球を操り、駆け引きで打者を翻弄していた。そうした技術を若手に伝授することはなかったのだろうか。
「教えたい気持ちはあるんだけど、僕が若手に教えるとコーチの手前、角が立つからできないんです。だから、教えるというよりも彼らには僕のやることを見てもらうわけ。チームの練習とは別に走り込んで足腰を鍛えるとか、走るときは錘の入った2kgのシューズを履くとか……。特に同じサウスポーだった野村弘樹は僕のことをよく観察していたし、ただ真似をするのではなく核の部分を盗んで練習に取り入れていた。そういう貪欲な姿勢があって彼は若いうちに大きく伸びたんだと思うよ。
あとは当時の若手キャッチャー陣、市川和正や高卒で入ったばかりの谷繁元信には“投げる瞬間にこれは打たれると感じたら咄嗟にサインと違う球を放ることもあるから、とにかくお前たちは絶対後ろに逸らさず補ってくれ。打たれたら俺の責任だから”と口酸っぱく言っていましたね」
チーム全体が新浦さんを心から受け入れていたら…
いくら「外様」であっても、新浦さんはそういう形で若手を育てていたのだ。もちろん成績面も然り。復帰した87年は11勝12敗でカムバック賞。翌88年も10勝11敗、89年も38歳で8勝を挙げ、それぞれ152イニング、160.1イニング、175イニングを投げている。87年9月に遠藤一彦がアキレス腱を断裂した後、野村弘樹が台頭するまでの間、大洋で頼りになった先発投手は新浦さんであり、欠端光則だった。新浦さんがいなければ古葉監督時代、チームはもっと散々な成績だったに違いない。
「大洋時代は僕にとって“もう一度日本でやれるか?”という問いに対するチャレンジの時期だった」と振り返る新浦さん。でも、チーム全体が田代富雄のように新浦さんを心から受け入れていたら、成績以上のもっと大きなものを残してくれたかもしれない。それが、あの頃スタンドで新浦さんのピッチングに惚れ惚れしていたホエールズファンの少し切ない思いである。
翻って2022年、2位に躍進したベイスターズは、他球団から移籍してきた個性派が若手とうまく融合してチームを盛り立てている。シーズン中しばしば豪快な一打を放ち、ベンチで若手以上に声を出す大田泰示、「しばくぞ」と上茶谷大河の尻を叩く伊藤光、CSでスタメン入りして好プレーを魅せた藤田一也、そして昨日決勝タイムリーを放ち、死球合戦になったヤクルト戦では相手ベンチの野次に負けじと声を張り上げた得点圏の鬼・大和。そんな大和と田代富雄コーチの掛け合いは今やチームの名物だ。
大洋時代のようなただの仲良しチームではなく、強く、それでいてチームワークが良く、移籍したベテランが大きな存在感を放つ今のベイスターズ。願わくば10月の終わりまで、もう少しの間だけこのチームの試合を楽しませてほしいと願っている。
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