世の中に同姓同名の人物は山ほどいる。だが、同姓同名にも2種類のパターンが存在する。それは偶然被ったケースと、あえて「被せにいった」ケースである。
巨人には「坂本勇人」が2人いるが、これは前者のパターンだ。育成契約の捕手として在籍する坂本は2002年生まれで、2007年巨人入団の元祖・坂本とたまたま名前が被っていた。期せずして球界のスターと同姓同名になってしまえば、世間から好奇の目で見られるのは間違いない。捕手・坂本は想像を絶するプレッシャーを背負い、プロの世界で戦っているのではないだろうか。
そこで、私は同姓同名の宿命を背負った人物に話を聞くため、調査を開始した。今回調査したのは「被せにいった」同姓同名のケース。その名も「原辰徳」である。
「原」という苗字は珍しくないものの、「辰徳」といえば世間的なイメージは一人の人物に限定されるはずだ。「タツノリ」の印象的な語感は、野球に疎い人でも「あぁ若大将ね」「原監督だね」と瞬時に想起させる。
そんなイメージ独占状態の「原辰徳」をなぜ、あえて被せにいったのか。そして、命名された当人は重荷と感じていないのか。私は数々の疑問を解決するため同姓同名の「原辰徳さん」を探し、なんと3人も見つけることに成功した。
「父親に謝られました」九州の原辰徳の場合
まず1人目は「九州の原辰徳」である。こちらの原さんは2013年夏の甲子園で、延岡学園の一員として準優勝を経験している。
1996年生まれの26歳で、“本家”は前年に現役を引退していた。それなのに名づけられた理由は、父の一存だったという。
「祖母が原さんの大ファンだったということで、父が『どうしてもつけたい』と言って辰徳になったと聞きました」
巨人がキャンプを張る宮崎に住み、一家そろって巨人ファンだった。なお、命名した父の名前は「貴志」だという。「『はらたかし』って誰かいませんでしたっけ?」と私が首を傾げると、原さんは恥ずかしそうに「元総理大臣の原敬さんです」と教えてくれた。漢字違いとはいえ、貴志さんは同姓同名への免疫があったのだろうか。
原さんは幼い頃、なんと本家と対面したことがあるという。
「幼稚園児の頃に父と一緒に宮崎キャンプに行って、原監督とお会いしたんです。なぜ会えたのかいまだにわからないんですけど、幼心に『自分はすごい人と同姓同名なんだな』と初めて認識しました」
ほどなくして、原さんは野球を始める。指導者は例外なく原さんの名前に興味を示した。みな本家の全盛時代を見てきた世代なのだ。
「原辰徳はホントにすごかったよ!」
そう言われるたびに、血のつながりすらない原さんはなんと答えていいのかわからず戸惑った。「多少イヤな思いはありました」と原さんは振り返る。
ちなみに原さんは小学4年時から右投げ左打ちになっている。転向を勧めたのは、あろうことか辰徳と名づけた張本人である。
「父が左バッターに憧れがあったみたいで……」
原さんはそう言うが、もしかしたら貴志さんは偉大な打者と息子が重ねて見られることを危惧したのかもしれない。原さんは幼少期に父からこんな言葉をかけられたと明かす。
「『この名前をつけてごめんな』って謝られたことがありました。僕としてはなんとも思ってなかったんですけど」
原さんは延岡学園で高校球児となり、高校2年夏の甲子園では背番号18をつけて全国準優勝を経験。日本経済大を経て、社会人クラブチームのREXパワーズで野球を続けた。だが、目標としていたプロ野球の世界は「想像以上にレベルが高かった」と到達できなかった。
名前が「原辰徳」で困ったことを聞くと、原さんはこう答えた。
「病院でフルネームを呼ばれると、周りがパッと見てくるので困りましたね。本人なのに『違うじゃん』みたいな空気になるので」
昨年限りでユニホームを脱いだ原さんは、福岡県で営業職のサラリーマンとして働いている。そして、自身の名前の破壊力を実感したという。
「名刺を渡してもすぐ覚えていただけるので、この名前でよかったなと感じます」
今も巨人ファンだという原さんには、密かな野望がある。
「原監督には1回だけお会いしたことはありますが、当時はわけもわからなかったので。大人になってもう1回、原監督にお会いするのが夢なんです」