新聞記者という職業柄、1~3年周期での担当替えや異動はつきものだ。

 私は2010、11年と埼玉西武ライオンズを担当したあと、大阪に異動した。東京に戻り、再びライオンズ担当となったのが21、22年。今年は別の球団を取材した。来年どうなるかは、まだ決まっていない。

 ただ一つ、勝手に決めていることがある。この選手の復帰戦だけは、仕事をこっそりサボってでも、見に行こうと。

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 岡田雅利選手、である。

 言わずと知れた、ライオンズの人気者。スタメンの機会は少ないが、第2、第3の捕手として、ときには「ピンチバンター」として、さらにはムードメーカーとしても、チームに欠かせない選手としてファンに愛されている。

 この仕事をしていると、正直、どこかの球団や選手に対して「ファン」という感情はなくなる。

 一方で、一度でも取材させてもらった選手には愛着がわくし、「ケガなく、長く活躍してほしい」と応援する気持ちを持っている。たとえば、今月14日に当コラムで紹介した隅田知一郎&古賀悠斗のバッテリー物語は、高校、大学時代から彼らを取材する筆者なりのエールでもある。

 しかし、私が岡田選手に抱く感情は、また別のものだ。この仕事を始めてから、初めての感覚だと思う。

リハビリ中も笑顔で取材に応じる岡田選手 ©山口史朗

捕手の半月板断裂はどれほど深刻か

「共感」。こう言うと、岡田選手に対して失礼か。「勇気をもらっている」と言うのが正しいかもしれない。私は岡田選手と同じ経験を持つ、数少ない記者だと思う。

 左ひざ半月板の手術だ。

 半月板に関して、岡田選手は19年、22年、そして今年3月と3度メスを入れている。私は今年6月に手術をした。痛めた原因が捕手、というのも同じ。立つ、しゃがむの動作の繰り返しによる摩耗だった(筆者も、中学2年から高校、大学と捕手を続けてきた。大人になってからは草野球だが……)。

 半月板の損傷や断裂はスポーツ取材をしていれば、よく聞く。大きなケガであることは間違いない。ただ、痛めても走れると聞いたことがあったし、そのまま競技を続けている体操選手もいる。

 そもそも、どんなケガなのか、いまいち分かっていなかった。とりわけ野球の「捕手」にとって、このケガがこんなにもつらく、悩ましいものだったとは。おそらく患ったものにしか分からない。

 筆者はかねてから、試合に出られずとも存在感を発揮する岡田選手の思考を知りたくて、昨春からインタビューを申し込んでいた。

 ただ、岡田選手の手術などもあり、昨年は実現できなかった。ようやく希望がかなったのが今年8月末。うだるような暑さの中、ライオンズトレーニングセンターで滝のように汗を流しながらリハビリに励む背番号「2」に、話を聞けた。

 幸か不幸か「ひざ」という共通点もでき、話題は半月板のことが大半になった。岡田選手もやはり、このケガが最初はどんなものか分かっていなかったという。「もうちょっと知識があれば、ここまでひどくなっていなかったかも」とも言った。

 どういう意味か。