追憶の紀元節

第71回

藤原 正彦 作家・数学者
ライフ 昭和史

■連載「古風堂々」
第67回 神童の縦横無尽
第68回 言葉は時を超えて
第69回 新旧メディアに踊らされぬために
第70回 ユーモアさえあれば
第71回 今回はこちら

 小学校四年生の頃、我が家の北隣りの空地に二階屋が新築され、三世代にわたる六人家族が引越してきた。父が満州にいた頃からの上司で、家族ぐるみのつき合いをしてきた和達清夫さん(中央気象台長)からこの土地を紹介されたとのことだった。和達夫人と隣家のおばあさんは、明治時代に国定教科書や尋常小学唱歌を編纂した東大教授芳賀矢一の娘で姉妹だった。両家の境界の垣根には半間ほどの小さな木戸があり、ここから小学生の私はしばしば隣家の庭に遊びに行った。天真爛漫で頓狂なことばかり言う私を老夫婦が面白がり可愛がってくれたのである。「僕、将来は絶対に死なない薬を発見するんだ」と言うと、おばあさんが、「急いでね、彦ちゃん、わたしが死なないうちにね」と言ったりした。西洋人のような風貌のおじいさんは、徳之島出身の巨漢力士朝潮の大ファンだった。無類の強さを誇った朝潮は、時にあっさりと土俵に転がった。そんな時、ラジオ放送を聞きながらおじいさんも必ず六畳間の畳に転がった。私を見かけるとよく、「彦ちゃん、一番どう」と声をかけた。将棋の好敵手だったのだ。おじいさんも私も共に反省心が強かったので度々「待った」をし、共に寛大な人柄だったのでそれを認めた。「前の手」「前の前の手」「前の前の前の手」まで待ったりしたうえ、負けた方は必ず「もう一番」と言ったから指し始めると長くなった。

 祝日には必ず隣家の門に大きな日の丸が掲げられた。こんな家は近所になかったし、我が家には日の丸さえなかった。ある時、祝日でもないのに旗が立っていたのでおじいさんに尋ねた。「今日二月十一日はね、紀元節といって、神武天皇が即位された日、日本という国が生まれたお目出たい日なんだよ。戦前には一番大きな祝日で、日本中の学校では記念式典が行なわれたんだ」。そう言って「紀元節」(雲に聳ゆる高千穂の……)という歌を口ずさんでくれた。お経のようで美空ひばりの方がいいと思った。「日露戦争が始まった年の紀元節は今も思い出すよ。明治天皇が宣戦の詔勅を出された翌日だったからね。我が家には召集された兵隊が大勢泊まっていたんだよ」「どうして」「そばに陸軍士官学校があって、近隣の家は召集兵を宿泊させるよう軍部から依頼されたんだ。三百坪以上もある大きな家だったから、ここで兵隊たちは出征の準備をしていたのさ。紀元節ということで父と母が彼等の壮行を祝おうと宴会を開いたんだよ。母や女中達は仕出し弁当を何十個も取り寄せたり、酒を用意したりてんてこ舞いだった。将校には上の弁当、兵士や家族には並だった。宴会中に、海軍が仁川沖と旅順港でロシアの軍艦を撃破したという号外が入ってね、それを将校の一人が読み上げるや皆が『万歳』『万歳』『万歳』と何度も唱和したんだ」。

 後で知ったのだが、おじいさんの父親は穂積陳重(のぶしげ)東大法学部長で、母親の歌子は渋沢栄一の長女だった。渋沢は娘を、自分の相談役になってくれる優秀な人材と結婚させたい、と日頃から思っていたようだ。そこで、日本で最初の法学博士で飛び切りの秀才、穂積陳重に白羽の矢が立ったのであった。

 渋沢栄一は根っからの反戦主義者だった。近代日本の資本主義を作り上げた人間として、その成果である国家財政や経済基盤を破壊する戦争などとうてい許せなかったのである。ところが明治三十六年夏、文部大臣兼内務大臣の児玉源太郎中将が渋沢の事務所に突然やって来た。児玉は渋沢に、日露開戦の避けられないことを告げ、戦費調達の協力を懇請した。非戦論の渋沢は承諾しなかった。秋になって大臣をすべて辞し、格下の参謀本部次長を引き受け、対露作戦を日夜練っていた児玉は、渋沢を再訪した。国の運命を双肩に担った児玉は、渋沢の協力を諦め切れず、戦時公債を財界が引き受けてくれるよう必死に説得した。「勝つ見込は」「ありません。しかし維新以来皇民一体で築き上げてきた我が帝国を守るため、万死に一生を期して戦うしか他に道がないのです」。ついには涙声となった児玉を見て、渋沢も涙を流しながらとうとう「全力で協力しましょう」と約束したのだった。この会見がなかったら到底ロシアに勝つことはできなかった。日露戦争勝利の翌年、満州軍総参謀長としての激しい労苦から、児玉は五十四歳の若さで他界したが、二年後にこの時の縁で児玉の娘が渋沢の孫、穂積重遠(後に東大法学部長)と結婚した。おじいさんの長兄である。

 おじいさん(穂積真六郎)は東大を出てから朝鮮総督府に入り、昭和七年から九年間、殖産局長(経産大臣)として全身全霊で朝鮮に尽くし、朝鮮を中世から近代へと一気に変貌させた。日本の後方基地として軍需生産ばかりを要求する日本政府に抵抗し、日本よりも朝鮮の国益を優先させた硬骨漢であった。金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』には、「朝鮮人を心から愛して、最後は朝鮮に骨を埋めようとしていた。……穂積真六郎から真の朝鮮の国父らしい姿を発見した」とある。

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source : 文藝春秋 2025年4月号

genre : ライフ 昭和史