新型コロナウイルス感染症が落ち着きを取り戻した今、私は科学者として、あるいは人間として「自己矛盾」に苛まれる。経済成長を支え、生活を豊かにすると信じられてきた科学技術の負の側面を如何に克服するか。人類はこの難問に直面している。
将来の新興感染症対策ばかりが注目されがちだが、人類にとり真剣に取り組まなければならないのは「自然との調和」であり、「調和ある多様性の創造」だ。人、言語、慣習、宗教などの多様性は、イノベーションの源泉であり、心豊かな人生を送るためには必須である一方、壁を作り、対立や戦争の元となる。人類の歴史は多様性による発展と戦争の歴史であると言ってもよい。芸術やスポーツ、学術などは多様性の壁を乗り越える人類共通言語であり、異文化の理解や尊重を育み「調和ある多様性の創造」に大きな力を有する。国境という多様性の壁を乗り越えた新型コロナウイルスもまた、一種の人類共通言語と言えないだろうか。

科学技術の進歩は地球を相対的に狭小化した。情報は瞬時に世界中を駆け巡り、アフリカで発生したエボラ出血熱は1日以内に東京に到達する。暮らしを向上させ経済発展をもたらした一方、自然環境破壊も引き起こした。ウクライナや中東では紛争が続いている。日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのは朗報であるが、核戦争の危機も間近に迫りつつある。
20世紀末には感染症を克服したという驕りがあり、新型コロナウイルス感染症のような新興感染症が爆発する予兆を軽視していた感がある。新興感染症は野生動物から人類社会への伝播であり、環境破壊と地球狭小化により今後も発生することが予測されるのだ。過去60年間に335件の新興感染症が発見され、40%以上は野生動物由来という研究結果がある。さらに、地球温暖化により、マラリアなど熱帯地域の感染症の流行地域が拡大しつつある。すなわち、新型コロナウイルス感染症などは環境問題とも言える。
科学技術は火の制御から始まり、新型コロナウイルスに対するmRNAワクチンが多くの命を救ったが、その負の側面を如何に克服するか。病気を治療する医学や生命科学の進歩はゲノム編集・再生医療技術や脳科学をもたらし、デザイナーベイビー、永遠の寿命や心の操縦などが現実味を帯びる。まるで、38億年の歳月を経て地球の自然環境で進化してきた人類が、そこから独立してホモ・サピエンスver.2.0に脱皮するかのようだ。科学技術は自然現象の人為的制御技術であり、自然環境破壊能力を内包している。人類には自然を思いのままに制御できるという「驕り」すらある。科学技術の駆動力は「知的好奇心」と呼ばれる人間の欲望だ。原爆まで作ってしまったオッペンハイマーの苦悩は、人間が人間たる所以である知的好奇心の行きつく先に何が待ち受けているかを如実に示している。
人間には寿命がある。文明にも終末がある。人類にもおのずから寿命があるのかもしれない。そうであれば、そうであるからこそ、多様性の壁を乗り越えて、目の前の対立や戦争を止め、平和で心豊かな人類社会を形成するために、社会や科学技術は全力投球すべきだと思う。
国際協調から対立へ、信頼から疑心暗鬼への流れに新型コロナウイルスは警鐘を鳴らしている。「己を知れ」ということだ。人類は地球という自然環境に育まれ、アフリカで誕生し、世界に拡散した単一種である。仲間なのだ。地球への感謝の気持ちを抱き、地球の自然環境を守り、異文化を理解・尊重しつつ、「調和ある多様性の創造」により「地球人社会」を目指さなければならない。
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