四半世紀25年前、文藝春秋から頼まれて「私の死亡記事」というのを書いたことがある。それから時間もたったので少し書き改めて再掲する。
作陶、書、油絵、漆絵、襖絵など幅広く手がけ、首相も務めたことのある細川護熙氏が先月20日、神奈川県湯河原町の自宅不東庵(ふとうあん)で老衰のため死去していたことが明らかになった。123歳だった。遺言により、葬儀や告別式は行われない。細川氏は1938年、東京生まれ。上智大学卒業後、朝日新聞記者を経て政界入りし、参院議員、熊本県知事、行革審部会長などを歴任。92年に自民党と社会党を中心とした55年体制の打破と規制緩和や地方分権による構造改革などを唱えて日本新党を旗揚げ。93年の総選挙で衆院に転じ、8党会派の非自民連立政権の首班として第79代内閣総理大臣に就任、38年ぶりの政権交代を実現した。
首相在任中は、先の日中戦争などを侵略戦争だったと、歴代首相の中ではじめて明確に表明。また政治改革、コメの市場開放などをやり遂げた。連立政権内部の分裂などにより、約8カ月で辞任。首相退陣後も政界再編に尽くし、98年に4党を合併させて当時の民主党を立ち上げ、60歳で政界を引退した。
その後は「不東」と号し、アート三昧の日々。生前に用意した自然石風の墓石には戒名もなく、「長居無用」とのみ刻んだが、長寿を続け、最近まで日本の政治の質の低下や構造改革の遅れを嘆いていたという。

100歳の誕生日のとき、挨拶で「世界一の長寿者は、今のところ122歳のフランス人女性だが、私はそれを超えるだろう。いまやイヤな奴らはみなくたばって、私は彼らより長生きした。これで『あいつは中身のないつまらん奴だった』といくらでも悪口がいえる。ザマアミロだ。長生きしたものが人生では結局勝者なのだ」と。
阿豊太令(アホタレ)首相は、官邸で記者団に「ロマンを持ち、理想主義の旗を掲げた、日本では珍しい政治家だったのではないか。私が政治を志したのも細川さんの新党旗揚げに触発されてのことだった。ご冥福をお祈りします」と語った。
凹凸大学の出久能望(デクノボウ)学長(政治学)「時代の流れを読む目というか、政治的勘はなかなかのものだった。何でも行動がはやかったが、せっかちな言動に周囲が追いつけず、時に混乱をもたらした。権威主義、形式主義を嫌い勲章や褒章の類を受けつけなかったのも細川氏らしいが、保守的な考え方の人たちにはなかなかその発想が理解されなかったのではないか」
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