ひとりの女性の再生の軌跡
とくに編み物に興味がなく、どちらかといえば手芸は苦手だ。10代の頃、マフラーや手袋を編んだ経験はあるけれど、それ以来編み針を持ったことはない。
それでも、書店で出会った本書に強烈に惹かれた。タフな題名に導かれて冒頭の数ページをめくると、編み物は「人生の優れたメタファー」であり、政治や社会を変え得ると書かれている。個人の趣味の範疇ではなく、編み物がひとをエンパワメントするのなら、その力の源泉を知りたいと思ったのだ。

著者はイタリア出身のエコノミスト。幼少期に編み物を教えてくれた祖母は、戦争を2度体験し、前線で戦う夫のために靴下や下着などを編んで支えた。イタリアの抵抗運動にも参加した祖母は、折に触れ、編み物の歴史を紐解いてくれた。たとえば、フランス革命には、ギロチンの処刑広場で自由のシンボルの赤帽子を編んで家族を支えた女性たちの存在があった。また、イギリスやドイツでは極秘情報をセーターに編み込むなど、ニッティング・スパイが暗躍。編み物は、まさに革命や抵抗、諜報活動の一部分でもあったのだ。植民地時代のアメリカでは、大英帝国の繊維製品のボイコットとして手編みが使われ、戦後に現れたヒッピーたちは、社会制度や消費文化にたいする異議申し立てとして編み物のムーヴメントを起こす。
編み物は「人々を結びつける機動力」を持つという。くわえて、著者の信念の強度は、彼女が遭遇したプライベートな危機にもおおいに関係がある。夫が密かに財産を使い果たし、長年の結婚生活が破綻。イギリスとアメリカの2軒の家を処分して生活は一変するのだが、苦悩の日々に灯りを点したのはほかでもない編み物だった。心身の癒しを受け取った著者は、あらためて編み物の歴史や諸相を調べ、それらを書くことで自分を立て直してゆく。だから、本書の裏面を編んでいるのは、ひとりの女性の再生の軌跡なのだ。
数多くのエピソードから世界あちこちの編み手の声が聞こえてくる。編む行為、編む技術、編む能力は創造表現であると同時に「自由意志の行使の証明」、そして連帯のメタファー。「ひび割れた世界を縫いつなぎ、政治家たちが日々開ける穴を繕い、戦争のパターンを終えて、再び平和の敷物を編み始められる」。また、優れた編み手は失敗を認めてほどき、一本の糸に戻して編み直す勇気を持っている、とも。
「まだ諦めていない、諦めない──それが編み物をする人の精神なのである」
巻末には手編みのパターン解説が掲載されている。第一次・第二次世界大戦軍ソックス、ユニセックスのベスト、ラスタファリアンハットの編み方に膝を乗り出した。編む技術はまだないけれど。
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