週刊文春 電子版

藤井に挑む「必至の名人」渡辺明の覚悟 同時進行連載

中村 徹
ニュース 娯楽
6月6日、終局後の両者
6月6日、終局後の両者

 6月6日、藤井聡太棋聖(18・王位も保持)に渡辺明名人(37・棋王、王将も保持)が挑戦する、棋聖戦五番勝負が開幕した。

 そのちょうど1年前。2020年6月8日の午後10時頃、渡辺は筆者の質問に対し、電話でこう言った。

「いや、だって自分はどっちを選んだって有利だと思って指してるんだから。

 ……でも、あれ? そうなのか。(実際の局面は)先手(藤井)良しなのか……」

 瞬間、渡辺の声のトーンが変わった。歯切れの良い口調は、考え込むような、くぐもったものになった。

 

(なかむらとおる 1974年生まれ。将棋のほか、医療や経済関連の記事を執筆。渡辺明名人には2004年から取材を続けている。著書に『天才 藤井聡太』(松本博文氏との共著/文春文庫))

 渡辺は同日、藤井を挑戦者に迎えた、棋聖戦第1局を終えたばかりだった。

現時点で最年少九段昇段記録(21歳7カ月)を持つ渡辺
全ての画像を見る(4枚)

 最終盤で渡辺が16手連続王手をかけて藤井玉に肉薄。だが不詰みを読み切った藤井が157手で制し、「将棋大賞名局賞」にも選出される名局となった。

 その夜、彼は自宅で、ソフトを使って敗因を調べている最中だった。97手目の藤井の攻めに対し、渡辺は「2一玉」と逃げた。何故、より広く安全に見える「3一玉」を選ばなかったのかと素朴な疑問をぶつけると、渡辺は冒頭のように答えたのである。

 だが、実はAIの評価は「2一」でも「3一」でも藤井有利だったのだ。

 渡辺は、おそらくパソコンの画面を眺めながら「そっかあ」と何度も呟いた。

 このとき渡辺は、藤井が自分より正確な局面判断をしていたと感じたはずだ。将棋に敗れたことよりも、その点に衝撃を受けているように思えた。

 結局、昨年の棋聖戦は藤井が3勝1敗で初戴冠。渡辺は第3局で約90手まで研究して勝つ凄まじい執念を見せ一矢を報いたが、対局からしばらくして、

「あの将棋は“弱者の将棋”だから全然ダメですよ。ソフトが考えた手を指しただけだから意味ない」

 と強い口調で語った。

「勝つべくして勝たなければ」という“強者の矜持”がそこにあった。

「紛れがあるでしょう?」

 あれから1年。渡辺は念願の名人位を獲得し、先月、防衛にも成功。三冠を保持する棋界の序列最上位者として、藤井の棋聖位に挑戦するリベンジのチャンスを掴んだのである。

 渡辺は「王道」を重視する棋士だ。彼が20歳の頃、趣味の競馬の話題になった時のこと。

「僕は中山競馬場には行かないんです。中山は小回りコースで紛れがあるでしょう? やはり府中のような広い競馬場で、強い馬が圧倒的なパフォーマンスを見せるのが好きなので」

 けたぐりや猫だましではなく、王道の勝ち方が好きだと話す青年。「俺もそうやって勝っていく」と言っているように聞こえた。

 だからこそ、単に名人位を持っているだけでは、渡辺の誇りは満たされない。

 藤井は16年、史上5人目の“中学生棋士”となったが、その16年前に4人目の中学生棋士としてデビューしたのが渡辺だった。

タイトル初挑戦時の渡辺(2003年)

 04年には20歳で竜王を獲得、以降現在まで一度も無冠に落ちていない。

 だが、渡辺の前には常に羽生善治(50)がいた。対戦成績は38勝41敗と拮抗。08年には「永世竜王」の称号を懸けた七番勝負で、3連敗後の4連勝で退けたこともある。

 しかしいくら直接対決で勝とうとも、通算獲得タイトル99期の羽生に対し、渡辺(通算29期)は常に“二番手”だった。

 18年、羽生は27年ぶりに無冠に転落。いよいよ渡辺を中心に棋界が回っていくと思われた。そこに現れた男こそ、18歳年少の藤井だったのである。

デビュー戦での藤井(2016年)

 現在の将棋界は三冠の渡辺、二冠の藤井に加え、豊島将之竜王(31・叡王も保持)と永瀬拓矢王座(28)が8つのタイトルを分け合い「4強」を形成している。渡辺は豊島、永瀬には大きく勝ち越しているが、藤井には1勝5敗(6月5日時点)と勝てていない。

 前回タイトルを奪われ、今回返り討ちに遭う……。そうなれば棋士たちの間では藤井>渡辺という格付けが固まる。羽生時代から自分を通り越して藤井時代へ――そんな屈辱は到底渡辺には受け入れられまい。

 まさに今回の棋聖戦は渡辺にとって、自身初の四冠となり覇権を握るか、藤井に呑み込まれるかが分かれる局面なのである。将棋用語でいう「必至」。自玉の詰みを回避するにはただひとつ、王手の連続で相手玉を寄せきるしかないのだ。

 昨年末、彼は藤井についてこう語っていた。

「藤井さんは妥協した手を指さない。(勝ちかどうか)ギリギリの局面なら、普通はそこで一旦安全策をとろうとする。でも、彼は読み切って指そうとするんですよ。番勝負をやって、そういう傾向が分かった。次は、結果はともかく、事前にこちらが持ってる情報量が違いますから……」

 そう言外に自信を滲ませる渡辺には、藤井に対峙する「覚悟」が漲っていた。

渡辺のプレッシャーとは

 そして6月6日、棋聖戦五番勝負第1局。

 先手番の渡辺は、「相掛かり」という激しい作戦で挑んだ。2月の朝日杯準決勝で相対したときと同じ進行を辿ったが、その時は渡辺が大逆転負け。負けた将棋を再び指すということは改良案があるはずだが、藤井は渡辺の誘導に乗った。

 竜王、王位の獲得経験がある広瀬章人八段(34)が語る。

「渡辺さんは序盤、早指しで時間を使いませんでした。明らかに研究してきた将棋です。しかし藤井さんも指し手を見る限り、渡辺さんがこの作戦でくると読んでいたと感じました」

 岐路は、2月の前例を離れた37手目だった。

「渡辺さんが8六歩という手を省略したんです。藤井さんはすかさず逆に8六に歩を打った。そしてその後、中盤に入ったあたりでは、すでに渡辺さんに思わしい手がなかったのです」

 渡辺には8六歩省略に成算があったはず。だが、藤井の応手がそれを上回ったのである。

 以降、中継の画面に表示されるAIの評価値は渡辺に振れることなく、最後は90手で渡辺が投了。昨年の第1局を再現するような熱戦を期待したファンにとっては、肩透かしともいうべき大差がついた。

 広瀬は、「この将棋は2つの大きなインパクトがあった」と言う。

「一つは渡辺さんの負け方です。作戦家の渡辺さんが事前準備で藤井さんに上回られた。渡辺さんがこういう負けを喫するのは、非常に珍しい」

 もう一つは、終局後に行われた感想戦だ。

「2人の読み筋を聞いていたら、藤井さんの読み筋がAIと殆ど一致していたのです。凄い精度です。他の棋士と比べると、藤井さんはミスが圧倒的に少ない。

 推測ですが、渡辺さんはそのことにプレッシャーを感じているのかも知れません。特に終盤の正確性は脅威。となると勝つためには序盤でリードを奪い、時間も相当多く残しておく必要がある。しかし第1局の渡辺さんは、その2つとも実現できませんでした」

 以前、渡辺は「強い棋士ほど、将棋の強さを正確に判断できる」と語ったことがある。渡辺が感じる藤井の強さは、おそらく、人間を凌駕して久しいといわれるAIの強さに限りなく近いのではないだろうか。

タイトルを防衛すれば史上最年少の九段昇段

 次局は6月18日。渡辺は、不利とされる後手番だ。負ければ早くも徳俵に足がかかる。

 更なる覚悟を秘めた男の姿が、そこにあるはずだ。

 (本連載は、棋聖戦の進行にあわせて掲載します)

source : 週刊文春 2021年6月17日号

この記事の写真(4枚)

文春リークス
閉じる