「このままストレート決着なら、将棋界の歴史が動きつつあるということを私たちも認識せざるを得ないのかも知れません」
そう感想を漏らすのは村山慈明七段(37)。序盤研究のスペシャリストとして知られ、同い年の渡辺明名人(37・棋王、王将も保持)とは9歳の時に出会い、奨励会時代から共に研鑽を積んだ長年の友人だ。
(なかむらとおる 1974年生まれ。将棋のほか、医療や経済関連の記事を執筆。渡辺明名人には2004年から取材を続けている。著書に『天才 藤井聡太』(松本博文氏との共著/文春文庫))
6月18日に行われた棋聖戦五番勝負第2局。藤井聡太棋聖(18・王位も保持)に挑んだ渡辺明は、第1局に続いて敗れた。これで藤井の「2―0」と、防衛にリーチがかかった。

だが、村山ら棋士たちが受けたインパクトは、単に渡辺が連敗したということだけに留まらない。渡辺の“負け方”にある。
第1局では先手番の渡辺が、4カ月前の両者の対局と同じ局面に誘導。37手目に渡辺が手を変え、入念な事前研究を窺わせた。

だが、藤井の応手がそれを上回った。“自分は知っているが相手は知らない”局面に持ち込んで押し切る、という渡辺の勝ちパターンが崩された一局だった。
そして第2局。今度は先手番の藤井が、第1局と同じ「相掛かり」に誘導。31手目、「5六」に角を放った。村山が言う。
「おそらく藤井さんは事前研究でこの角を有力と見たのだと思います」
だが渡辺も的確に対応し、58手目に9四角と、藤井玉を睨む角で攻めた。
この時点で、AIの評価値は五分五分。だがプロの評価はもっぱら「渡辺優勢」だったという。
「藤井さんは居玉(玉が初期配置のまま)。一方の渡辺玉は矢倉囲いに収まり、万全の守り。『自玉を堅くして攻める』という渡辺さん好みのパターンに入った。いわゆる『勝ちやすい形』なんです」(村山)
渡辺にはもう一つ優位な点があった。「残り時間」である。
13年前の「歴史的大逆転」
序盤から考慮時間を惜しまず使う藤井に対し、渡辺は明らかに、終盤まで時間を残すよう意識していた。
71手目に7四歩と打った時点で、藤井は残り5分。一方、渡辺はまだ39分余していた。日本将棋連盟常務理事の井上慶太九段(57)も「この時の渡辺さんの顔つきや雰囲気には、この将棋は絶対に勝つという気迫が漲っていました」と語る。
ところが――。
村山が感嘆する。
「まさにその71手目が素晴らしい一手だった。タダのところに歩を打ち、それを取らせることで渡辺さんの角を封じ込めた。この時渡辺さんの持ち駒に歩はゼロ。歩切れの相手にタダで歩を渡すのは、非常に指しにくいはずですが……」
だが実は、AIもこの藤井の手を最善手と判断していたのだった。
この手以降、渡辺の指し手は正確さを欠いていった。結局、先に秒読みに追い込まれたのは渡辺。藤井は豊富な歩を巧みに使ってあっという間に渡辺陣をバラバラに。渡辺も自玉周りに金や銀を打って必死に抵抗するが、藤井は勝勢になってからも誤らなかった。
第1局の90手とは対照的に、171手の長手数となった第2局。だが、村山の見方はシビアだ。
「長い将棋になったことで大熱戦に見えたかも知れませんが、プロ的には途中から差がついていました。渡辺さんはダメだと思えば早く投げることもありますが、本局は粘った。ただ、粘った先に勝ちがあったかといえば、ない。渡辺さんの意地を感じましたが、トータルでは藤井さんの強さ、正確さが際立ちました」
両者の通算対戦成績はこれで渡辺の1勝7敗と大きく偏った。棋聖を奪取するにはここから通算勝率8割4分の藤井に3連勝しなければならない。まさに必至、つまり王手の連続で相手玉を寄せきらなければ負け、という状況だ。

昨年タイトル初挑戦の藤井に棋聖位を奪われ、今年返り討ちに遭う……。そうなれば渡辺は、自分の時代を確立できないまま藤井に盟主の座を明け渡した、と棋史に刻まれかねない。それは耐えがたいはずだ。
だが、現実に研究で上回られ、得意の形に持ち込んでも通じない。渡辺はまさに進退窮まっている。
実は、渡辺がここまで追い詰められたのは初めてではない。
2008年、将棋界で「100年に一度」と言われた大勝負があった。
渡辺(当時24)の竜王位に、羽生善治(当時38・名人含め四冠)が挑戦した竜王戦である。渡辺が勝てば「連続5期」、羽生が勝てば「通算7期」、それぞれ規定を満たし、棋界初の「永世竜王」の称号を得ることが決まっていた。

渡辺にとって14歳年長の羽生は、「七冠独占」をはじめ“史上初”の称号をことごとく先に手にしてきた、絶対的な先行者。通算獲得タイトル数も羽生99期、渡辺29期と差は圧倒的だ。
渡辺は以前、筆者にこう語ったことがある。
「僕は羽生さんたちとは話はしません。そりゃ、すれ違えば挨拶くらいはしますけど」
この発言の根底にあるのは、羽生という棋界最高の権威に対する渡辺の反骨に他ならない。渡辺にとって初めて巡ってきた、羽生より先に「史上初」の称号を得るチャンス。それが08年の竜王戦だったのだ。
だがパリで行われた第1局、渡辺は洗礼を浴びた。
自玉は穴熊、しかも羽生陣に竜を作っているという渡辺の力が最も発揮できる局面。だが読み進めるうちに、実はその局面が羽生有利だと気づいたのである。
「大局観で上回られた。ひどすぎます。将棋観が変わった――」
渡辺は敗れ、対局後にそう心境を明かした。
初戦の影響は心理的にも大きく、2、3局目も連敗。
このとき、渡辺にストレートなエールを送ったのが、現在は漫画家として活躍するめぐみ夫人だった。ブログにイラスト入りで綴った言葉は、バスケットボール漫画「スラムダンク」の名台詞だった。
「渡辺くん、あきらめたらそこで試合終了だよ」
妻の言葉に呼応するかのように、「羽生永世竜王」を阻止せんとする渡辺の反骨心は目覚めた。そして第4局から4連勝し、竜王防衛を果たしたのである。七番勝負で史上初めて実現した、「3連敗後の4連勝」という大逆転劇だった。
そして現在、渡辺の、羽生との通算対戦成績は38勝41敗。直接対決では五分の存在になった。
今回の棋聖戦開幕直前、渡辺に尋ねた。
「昔、羽生さんとの竜王戦で『将棋観が変わった』って言ってたけど、去年藤井さんと棋聖戦を指して、同じように感じました?」
渡辺の答えは、素っ気ないものだった。
「うーん、立場的には逆じゃない? こっちが何か学ぶという感じはないけど」
だが渡辺は取材の中で、ときに天の邪鬼な物言いをすることがある。勝負を目前にすれば尚更だ。
相手の棋力を冷徹かつ的確に計る鑑識眼を持つ渡辺。これまでの8度の対局を通じ、おそらく他の誰よりも、藤井の強さを骨身にしみて知っているはずだ。
そのうえで、かつて羽生という強大な権威と渡り合ってきたのと同様、今、藤井に対する自らの反骨心を奮い起こそうとしているのではないか。藤井に苦手意識を抱いてしまっている自分自身に、怒りにも似た感情も湧いているはずだ。
そのエネルギーを盤面に叩きつけることができれば、あるいは……。
第3局は7月3日。まさに天下分け目の一戦になる。
(本連載は、棋聖戦の進行にあわせて掲載します)
source : 週刊文春 2021年7月1日号