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実母が初めて明かす三浦春馬の「遺影」 最も彼を知る15人の核心証言

「週刊文春」編集部

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14歳から始めたサーフィンが趣味だった
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 俳優・三浦春馬の突然の死からまもなく1年。アミューズ主催の「お別れの会」はコロナ禍で中止に。そんな中、親友や恩師、共演者、監督らが小誌の取材に応じ、今だから語れる「春馬との日々」を明かした。そして実母も――。

 俳優・三浦春馬(享年30)が自ら命を絶ってから、9カ月余りが経った今年4月26日の昼下がり。東京都内を出発した運送業者のトラックが常磐自動車道を進み、茨城県内の住宅街に忙しなく停車した。

 その日、三浦の実母・A子さんの自宅に運び込まれたのは、三浦が買い集めていた家具一式。いずれもサイズが大きく、しばらくの間、別の場所に保管されていた“最後の遺品”だ。

 たった1人の息子を亡くしたA子さん。自宅の一室には、三浦が生前使っていた財布や携帯電話、几帳面な文字で綴られた手帳が並べられている。遺品の中からは、ファンから届いた数多くの手紙も見つかった。

 そして、彼女が毎日のように、目を瞑って手を合わせる「遺影」には――。

 三浦が僅か30年の生涯に幕を下ろしたのは、昨年7月18日のことだ。まもなく一周忌を迎える。

 
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「所属事務所のアミューズは『お別れの会』の開催を予定していました。ところが6月26日、感染状況などを理由に中止し、代わりに追悼サイト内に特別な場所を設けることを発表。2日後の株主総会では、亡くなった当日の経緯に関する質問も出ましたが、事務所側は『陰謀や事件性のあるものではない』と否定しました。ただ、三浦の死を巡っては、今も様々な憶測が取り沙汰されているのも事実です」(スポーツ紙記者)

 三浦春馬はどのように生き、何に苦悩し、なぜ命を絶ったのか。今回、最も彼を知る15人が小誌の取材に応じ、1年が経った今だからこそ明かせる「春馬との日々」を振り返った。

「オーディションには約2000人が集まりましたが、一目見た時から、春馬しかいないと思いました」

 そう語るのは、11歳での本格デビュー作「森の学校」(02年公開)の西垣吉春監督。同作は、A子さんが小誌の取材で「忘れられない作品」として挙げた映画だ。三浦演じる主人公・河合雅雄を中心に、6人兄弟が自然や動物たちとの裸の付き合いを通じて成長する様を描いている。

「森の学校」では坊主頭に(Ⓒ2002森の学校製作委員会)

「この作品では関西弁にこだわったので、東京から参加した春馬は苦労したと思います。でも、しっかりトレーニングしてから来ていて、大したもんでした。凄いと思ったのは、彼は現場で台本を見なかったこと。本当に瑞々しい、純粋で無垢なお芝居をしてくれた。それは天性のものでした。実は、春馬が30歳前後になったら『森の学校Ⅱ』を作る構想もあったんです。今後の映画界を担っていくはずの彼を見られなかったのは非常に残念ですが……早くに花が咲き過ぎたのかなと思います」(同前)

20歳の春馬と初めての酒を

 三浦は10年に公開された映画「君に届け」で大きな飛躍を遂げた。同作の熊澤尚人監督が振り返る。

「最初の印象は、照れ屋で繊細な部分のある俳優さん。だけど、話すうちに彼の持つ人間性がよく分かってきた。持って生まれたカリスマ性がありました」

 当時、三浦は20歳の誕生日を迎えたばかり。

「撮影が落ち着いた頃、足利で2人で飲んだんです。20歳になるまで飲まないようにしていたのも、真面目な彼らしい(笑)。ビールでしたが、『あまり縛られずに色んな役をやってみたい』とすごく楽しげに話していましたね」(同前)

 以降も、毎年のように話題作に出演。役柄に深く入り込み、陰陽を巧みに演じる俳優として花開いていく。演技に臨む姿勢はベテラン俳優をも唸らせた。三浦と共演を重ねてきた俳優・國村隼がこう証言する。

「(15年公開の『進撃の巨人』では)ガッツリ一緒にやりましたね。僕が初日に入った時、彼は『2日前、高いところに吊り下げられて大声で叫ぶシーンを2日間撮ってたんです。そしたら声が出なくなっちゃって』と笑って挨拶してくれた。はにかんだような表情が彼らしいと思ったし、撮影現場では非常にストイックでもありました」

 一方で、國村はこうも漏らす。

「自分の心情を吐露できるような相手、ちゃんと甘えることができるような相手がいれば、ずいぶん色んなものが変わったんじゃないかなと……。責任感が強いがあまり、弱音を吐かなかった、いや、吐けなかった。そんなことも思います」

國村隼は「非常にストイック」と証言

 その國村が再び三浦と共演したのが「映画 太陽の子」。8月6日に公開される“最後の作品”だ。原爆の開発を命じられた科学者の苦悩を描いた物語で、三浦が演じたのは、京都帝国大学に籍を置く科学者・石村修の弟で軍人の裕之。黒崎博監督が舞台裏を明かす。

8月6日公開の「映画 太陽の子」(HPより)

「撮影が行われたのは、19年9〜10月の約2カ月間です。彼とは『まっすぐ生きている当時の若者の姿をどう見つめていくか』というテーマで、何度も議論を重ねました。軍隊式の歩行法を学ぶため、専門のトレーナーを招き、背筋の伸ばし方、視線の振り向き方まで細部を磨いていった。例えば、母親に最期の別れを告げる場面があります。台詞もないのですが、彼は佇まいだけで『訣別』を示してくれた。撮りながら、ぐっと胸を掴まれた瞬間でした。春馬君は本当に命を懸けて、完全燃焼して演じる人。役作り以前に普段から、毎日を大事に生きるということをすごく真摯に考えている人だと感じました」

 前出の國村も続ける。

「彼は、キャラクターの痛みを三浦春馬として感じながら表現するタイプ。役柄と、三浦君自身との“共鳴作用”が大きかったのではないでしょうか。非常に深く、真実味のある演技でした」

 だが、実はその頃、三浦は精神的な葛藤に激しく苛まれていた。彼が遺した日記には、裕之と自分自身を重ね、煩悶する様が丁寧な直筆で記されている。

〈散る運命を背負いながら、家族の前では気丈に振る舞おうとする気持ちを考えると胸が痛んだ。だがそ(ママ)こ共通点というか胸が痛んだ〉

 三浦はその日記でも〈その共感とは?〉と自問自答した上で、約3年前の出来事をこう綴っていた。

〈5ヶ月の短期語学留学を目前にした頃、自分が自分の人間性を全否定するような出来事があったんだ。たちまち鬱状態に陥り、自暴自棄になった。(略)気力のない「嘘の笑顔」を作り毎日嘘をつき続けることの苦痛が自分の演じた裕之の葛藤に近いと思いました〉

 自分の人間性を全否定する出来事――。一体、何が起きていたのか。今回の取材を通して改めて見えてきたことがある。

三浦が胸襟を開いていた人々

「彼はこの頃から、自身の生き方に疑問を持ち始めるようになっていました。その背景は、複雑な生い立ちを抜きには語れません」

 そう明かすのは、三浦が信頼していた親友だ。

 90年、茨城県つくば市で生まれた三浦は小学1年生の頃、両親の離婚を経験。「友達ができるように」と預けられたのが、地元の芸能スクール「つくばアクターズスタジオ」だった。当時、三浦を指導していた加藤麻由美氏が振り返る。

「人一倍甘えん坊な子でした。帰宅を促すと、一度だけ『帰りたくない』と言ったこともあった。ちょうど、新しいお父さんと3人の生活を始めた頃でした」

 A子さんは、地元でホストクラブを営む男性と再婚。中学3年生まで市内の一軒家で、継父との“3人暮らし”を続けた。前述のように、この間、三浦は俳優として飛躍を遂げた反面、家族関係は捻じれていく。

 A子さんが二番目の夫と離婚したのは15年頃。息子に金銭的な助けを求めることも増えた。当時、三浦は女優・蒼井優と交際していたが、その恋愛を巡ってもA子さんと衝突する。

 そして――。

 17年夏、約5カ月間の英ロンドンへの短期語学留学をする直前、三浦は親友にこう漏らしたのだった。

「結局はお金。今は両親には二度と会いたくない」                                

 A子さんに黙ったまま携帯番号を変え、小学1年生の頃に生き別れた実父・Bさんの姓「三浦」に改姓。A子さんと絶縁したのだ。

 だが、ロンドンの地で家族関係は更なる流転を重ねていく。知人を介して、Bさんが心臓病を患っていることを知った三浦。帰国後、約20年ぶりの再会を果たすのだ。

 伯父にあたる、Bさんの兄が目を細めて言う。

「ロンドンから帰ってきてからは、春馬君の方から弟に『ご飯食べよう』とか何回も連絡していたみたいだから。LINEでやり取りして。一緒にお酒を飲んだり、カラオケに行ったりしていたと聞いています」

 伯父が最後に三浦と会ったのは、18年5月。親族の葬儀で三浦家が一堂に会したのだ。この場で伯父が、

「結婚、いつすんの?」

 と聞くと、三浦は、

「ん〜、35歳くらいかなぁ」

 と、はぐらかすように答えていたという。折しも、女優・三吉彩花との2ショットを「フライデー」で報じられた時期だった。

「ただ、Bさんにも『入退院を繰り返し、お金が苦しいから支援して欲しい』と無心をされていました。春馬はそのことに酷く落ち込んでいた。Bさんとの再会もまた、彼の絶望を深めたのです」(三浦家の知人)

 与えられた役柄に没頭し、家族には複雑な感情を抱く日々を送る中で、三浦が胸襟を開いていたのは、等身大の自分と向き合ってくれる市井の人々だった。

 全国47都道府県のメイド・イン・ジャパンを訪ねる旅をまとめた三浦の自著「日本製」。その「広島編」に登場するのが、被爆者の梶矢文昭さんだ。小誌昨年10月1日発売号で、三浦から届いた直筆の手紙について明かした梶矢さんが、その後の反響を振り返る。

「日本製」の取材で出会った梶矢さんへの手紙

「『週刊文春』に載ってから、全国の会ったこともない方々から手紙が数十通届きました。三浦春馬という男はそれだけ皆から愛されていたんやと思います」

「長崎編」では、三浦はこんな言葉を綴っていた。

〈行き詰まったら、戻ってきます〉

 三浦がその地、長崎県の壱岐島に降り立ったのは15年9月。コバルトブルーの玄界灘に浮かぶ島で出会い、心を通わせたのは「平山旅館」の女将だった。

 ガイドを務めたNPO法人「一支國研究会」の伊佐藤由紀子理事長が語る。

「女将は分け隔てなく誰にでも平等に接する人。初対面の時、春馬君を『ハルミくん』と言い間違ったけど、『俳優だから何なのよ、一人の人間でしょ』って。春馬君はそれが嬉しかったようで『故郷に帰ったような気持ちになれる』と話していた。お土産に梅干しを渡すと、春馬君は『この梅干しが食べたくなったらまた来る』って。女将は『いつでも送ってあげるわよ』と笑顔で応じていました」

 三浦は、神々が息づく離島の風に身を委ね、ありのままの姿を見せていた。

 旅館の従業員が言う。

「昨年4〜5月、旅館はコロナで休業しました。その時、女将が『闇袋』という通販をやると言ったら、彼が『協力させて下さい』と。梅干しなど名産を詰めた1袋1万2000円の『闇袋』を、10袋も買って、知人に配り歩いてくれたんです」

 自粛期間中、三浦は手作りの醤油麹をピクルス瓶に詰め、直筆のメッセージとともに女将に郵送するなど、“長崎の母”との交流は死の直前まで続いた。

「彼が亡くなったことを知った女将は『息子みたいだった。そんなに悩むんならなんで言ってくれなかったのか』と話していた。実は、女将自身が息子さんを1人亡くされている。だから、なおさら自分の息子みたいな気持ちだったようです」(前出・伊佐藤氏)

 そんな女将が、ガンで亡くなったのは今年6月18日のこと。三浦の一周忌を1カ月後に控えていた。

「寝たきりの女将から私のところに電話が入ったのは、亡くなる数日前。女将は『春馬君のファンがお見えになってるから一緒に行ってあげて』と。女将は最後まで春馬君のことは気にかけていました」(同前)

 19年春に知り合い、フィットネスなどを通じて親交を深めた都内在住の会社経営者は、やがて三浦と家で鍋を囲む仲になった。その人物が明かす。

誤って連写撮影となり、思わず笑みがこぼれた
「日本製」の取材で、佐賀県の金子晃久さん(左)、金子認さんと

初詣は「靖国でもいいですか」

「壱岐島の女将さんが鯛などを冷凍にして送ってくれて、春馬から『1人で食べきれないから一緒に食べよう。この美味しさをシェアしたい』と連絡が来たこともありました。家が近かったので宅飲みしながらNintendo SwitchのカラオケJOYSOUNDで朝まで歌ったり。彼が歌うのは中西保志の『最後の雨』や尾崎豊。中島みゆきの『時代』や『糸』とか昔の名曲が好きだった。彼が大好きだったディズニーのメドレーを一緒に歌ったこともあります」

「太陽の子」クランクアップの約2カ月後。昨年の正月、2人の姿は、約240万余柱の英霊を祀る靖国神社にあった。「初詣行かない? 明治神宮とか」と連絡を入れると、三浦が「靖国でもいいですか」と珍しく提案してきたのだ。そしてこう言葉を続けたという。

「資料館(遊就館)に行きたいんだよ。自分は戦争の時代とかに生きた人を演ることが多い。特攻隊の人たちがどういう思いかっていうのを知らないと」

 その日、2人は英霊が家族に宛てた数百通の手紙を見て回った。

「特攻隊の手紙には『本当は行きたくない』『僕は国のために頑張る』などと書かれていて。当時の日本の雰囲気を感じた時に心が重くなってしまった。『先に出るわ』と僕が言うと、春馬も『ごめん、俺も無理』って。結局、2人で出たんです」(前出・経営者)

 その約7カ月後――。

 三浦は自死を遂げた。仲間たちにとっても、それは余りに突然の出来事だった。

「死の1週間前、彼にLINEしているんです。『何してんの』って。そしたら彼は『ちょうどドラマの撮影をやっていたタイミングで、忙しいからまた唐突に誘うね』と言われて。いつも通りの春馬でした。友達だからこそ心配させるようなことを言えない彼の優しさだったのかな……」(同前)

 そのドラマが、「おカネの切れ目が恋のはじまり」(TBS系)。同作で共演した俳優・草刈正雄が言う。

「全てのことに一生懸命取り組んでいて役者としてのプロ意識を感じました。私が先に帰る際、わざわざロケセットから出てきてくれて、笑顔で『お疲れ様でした』と声をかけてくれたことが印象に残っています」

草刈正雄は「プロ意識を感じた」と振り返る

 三浦は亡くなる前日も夜10時まで撮影に臨み、主演の松岡茉優らと話し込んでいたという。いつもと変わらない三浦春馬だった。

 突然の訃報を受け、棺に眠るその亡骸と対面した実父のBさん。自身の兄にこう伝えたのだった。

「きれいだったよ」――。

 あれから1年。遺族の身辺は今、にわかに慌ただしさに包まれている。

 今年1月中旬には、Bさんが持病の心臓病を悪化させ、亡くなった。息子の死から約半年後のことだった。葬儀は地元の茨城県で行ったという。

 一方で、離婚したA子さんとBさんの間では、相続問題が混迷しているとされてきた。しかも、「女性セブン」(7月8日発売号)によれば、三浦には「軽く億を超える預貯金が残されていた」という。その場合、A子さんが多額の遺産を相続することになるのか。

 A子さんの代理人弁護士に確認を求めたが、

「億を超えるというのは、全くの事実誤認です」

 小誌が複数の関係者に取材したところ、実際には三浦の預貯金は数千万円程度だという。

「春馬らしい写真で……」                                                   

――では、遺産分割協議はどうなったのでしょうか。

「まだ終わってはいません。相続税の申告は亡くなってから10カ月。そこ(3月)での決着を目指して協議を重ねてきましたが、Bさんが亡くなったことで彼の側の申告期限が先送りされている。ただ、A子さんは相続財産の半分相当額を納めなくてはいけなかった」(同前)

 他方で、今年3月8日には、三浦が11年に設立した個人会社「M」が解散している。この会社は映画のギャラなどの振込先で、実務はそれまでアミューズの社員が手伝っていた。

個人会社「M」の登記に〈解散〉の文字

――なぜ解散したのか?

「Bさん側は『もう亡くなった人の会社だし、残す必要はない。清算してしまいたい』との希望でした。遺産分割の一環として、清算したほうがすっきりするという要因が強いかもしれません」(同前)

――ただ「M」には今後も「映画 太陽の子」の出演料や「日本製」の印税も振り込まれるはずでは?

「それはそうですが、過去の契約でアミューズの取り分はアミューズに入るのではないでしょうか。(出演料などの受け皿になる)A子さんの会社設立については『税務対策はまた考えたほうがいいです』という話はしています」(同前)

 アミューズに「M」が解散した経緯などを尋ねたが、

「当社からのコメントはございません」

 一方、当のA子さんは今、何を想うのか。今年2月には、彼女がアミューズと対立していると報じる記事もあったが、今回、「15人目」の証言者として改めて小誌の取材に応じた。

――アミューズは昨年12月21日、「三浦春馬に関する全ての利益は、三浦春馬支援と称し、寄付・支援に充てる」と発表している。この点について、同意しているのでしょうか。

「寄付・支援活動の趣旨や、春馬のそれらの活動への想いなどは、事務所の方から死後に直接説明を受けていますし、私としても賛同しています」

――事務所の対応に不満はなかったのか。

「今の時点で事務所の対応に不満を持っているということはありません。生前も事務所の方にはお世話になっており、春馬の遺志を引き継いでいきたいとも考えています。ファンの方々へ、どのように感謝の気持ちを伝えたら良いかなども含め、これからも事務所の方と相談して、できる限りのことをしたいと思っています」

 昨年末の取材では小誌に「まだお墓のことまで考える余裕がありません。もう少し心の整理をつけるまでお時間を頂ければ……」と吐露していたA子さん。一周忌を迎える今も、三浦が眠ることになる墓はまだ定まっていないという。

――最後に、一周忌を迎える今の心境を教えて下さい。

「納骨はまだできていませんが、息子の在りし日を偲びながら、これからは静かに暮らしていきたいと思います。遺影は事務所の方が選んでくれたものですが、くしゃくしゃの満面の笑顔の春馬らしい写真で私も気に入っています」

 心に葛藤を抱え続けた三浦だったが、最後に遺したのは、笑顔の記憶だった。

source : 週刊文春 2021年7月22日号

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