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第22回「トニ・ブランコ 歩いて海は渡れない」

嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか

鈴木 忠平
エンタメ 社会 スポーツ

 ウッズの後釜を求めた落合。中米に飛んだ森と桂川は1人の打者に目が留まった。

 

(すずきただひら 1977年千葉県生まれ。日刊スポーツ新聞社に入社後、中日、阪神を中心にプロ野球担当記者を16年経験。2019年よりフリー。著書に『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』、取材・構成担当書に『清原和博 告白』、『薬物依存症』がある。)

 
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 2011年のペナントレースはお盆を過ぎても先が見えなかった。10年ぶりの優勝へ独走していたヤクルトが停滞し、阪神と巨人が迫っていた。中日はそのわずか後ろで小さな浮き沈みを繰り返していた。

 8月半ばの月曜日、私はひとり新幹線の改札に立っていた。夕刻の東京駅には人波がつくり出す流れがいくつもできていて、その中では誰もが同じ速度で同じ方向に進んでいた。ゆっくり歩くことも、立ち止まることも許されないようだった。

 私は落合を待っていた。

 ゲームのないこの日、落合は18時51分発の「のぞみ59号」で名古屋に入る――夫人との何気ない会話の中で私はそう聞いていた。

 待とうと思ったのは核心に触れなければならないことがあったからだ。

 ひと月前、落合は前半戦を終えたタイミングで、オーナーの白井文吾と会談した。指揮官として、チームの現状と後半戦への見通しを示した。

 白井はその席のことを報道陣から問われたが、落合の進退についての明言を避けた。

「私の頭の中に考えはあるが、まだ球団と話し合っていないし、今、バラしてしまっては具合が悪いんだよ」

 契約最終年を迎えたシーズンには、これまで必ずこの「オーナー報告」の場で落合の続投を明言してきた。そのグループ総帥が口を閉ざしたという事実は、明らかに落合政権の終わりを暗示していた。シーズン前、本社から新しい球団社長がやってきたことも、すべてはそこに向けた布石なのではないか、と連想させた。

《落合がこの流れの変化を感じとっていないはずはない》

 ゲームの分岐点となるわずかな兆しも見逃さず、常に先手を取る。そうやってこの世界を勝ち残ってきた指揮官が、この状況にどんな手を打つのか。私はそれが知りたかった。

 夏の陽が西の空に沈む時刻になると、駅のコンコースを流れる人波はさらに密度と速度を増していた。

 私は腕時計を見た。

 発車まであと5分あまりになっても落合は姿を見せなかった。

 構内からは、新幹線がまもなくホームに入ってくるというアナウンスが聞こえてきた。

 俯きながら歩く人たちが早足で目の前を通り過ぎていく。次第に私はそわそわとしてきた。

《予定を変更したのだろうか》

 人波の中から、ひとりだけ流れに逆らうように歩く男が現れたのはその時だった。遠目にも落合であることがわかった。

 もう発車までは1分足らずだった。落合はいつものように、ぶらんと体の脇に下げた両腕をほとんど動かすことなく、ゆったりと歩いてきた。

 改札の前に立っている私を見つけると、「お」とだけ短く言った。私は落合の後ろに続いて改札を抜けた。

 もう列車は出発の準備を終えているようで、しきりに乗車をうながすアナウンスが流れていた。乗客らしき何人かが落合の脇を駆けていった。

《このままでは遅れてしまう……》

 私は焦りを覚えたが、目の前の落合は中型のボストンバッグを手に相変わらず周囲とまるで調和しない速度で歩を進めていた。

 売店を通り過ぎ、ホームへと続く階段が果てしなく長く感じられた。

 落合が階段の中腹に差し掛かったあたりで、ついに発車を告げる甲高いベル音が鳴り響いた。

「まもなく、扉が閉まります――」

 私は思わず駆け出した。落合も当然、そうするものだと思った。

 後ろで声がしたのはその時だった。

「俺は走らねえよ」

 振り向くと、落合が薄っすらと笑みを浮かべていた。私は唖然とした。

 落合はこの期に及んでも歩いていた。

 確かに落合が走る姿を見たことはなかった。あるとすれば、現役時代の映像の中だけだ。監督としては、グラウンドでも、プライベートでも、いつもゆったりと歩く姿しか記憶になかった。

 周囲に流されない。他に合わせない。それが落合の流儀だ。ただ、あらかじめ席をおさえた新幹線が今まさに目の前で動き出そうとしている。その状況でさえ自分の歩みを崩さない、そんな生き方をしている人間を私は初めて見た。

バッグを手に歩く落合(産経新聞社)

「契約の世界に生きてるんだ」

 落合と私がホームに辿り着かないうちに、のぞみ59号のドアは閉まった。生きものが大きく息を吐き出すような音を聞きながら、私は何かを目前で逃したときの喪失感に襲われた。落合はその横でどうということもないという顔をしてホームを先へと進んでいた。顔にはまだ先ほどの薄笑いがあった。

 落合は指定席の切符をどうするのだろうか? 私がそんなことを考えていると、またホームにアナウンスが流れた。何かのトラブルだろうか、列車はまだ動き出していなかった。

 そして、なぜか私たちの目の前で新幹線のドアが再び開いたのだ。

《こんな偶然があるのか……》

 落合は悠々と歩いて、目当ての車両に乗り込んでいった。私は再び呆然としながら、その後に続いた。

「たまたまだけど、よかったな」

 落合は可笑しそうに言うと、グリーン車最前列の窓側のシートに身を沈めた。私も隣に腰を下ろした。

 なぜ、ドアは開いたのか。いや、それよりも、なぜ落合は走らないのか。私の脳内は今しがたの不思議な出来事にとらわれていた。

 新幹線はようやく動き出した。私は、そこで自分がやるべきことへと思考を戻した。

 落合は車窓から夕闇を眺めていた。角のない、丸みを帯びた表情だった。私はちょうど1年前の夏に見た落合の姿を思い出した。耳にイヤホンをしたままタクシーの窓枠にもたれ、力尽きたように目を閉じていた、あの29分間の沈黙である。

 あの憔悴しながらもどこか研ぎ澄まされた表情と比べ、今シーズンの落合は妙に穏やかだった。チーム状況は当時よりも厳しいはずだったが、なぜか、すべてを受け入れるような空気があった。

 列車が動き出してほどなく、落合は通りかかったワゴンサービスを止め、アイスクリームを2つ注文した。

「これが一番、美味いんだ」

 そう言うと、叩くと音がするくらいに凍ったバニラをスプーンで削りながら、こんな話を始めた。

「なあ、もし明日死ぬとしたら、何を食べる?」

 つまり、最後の晩餐についてだった。私は一瞬、鼓動が早くなった。私の用意していた問いもまさに“終わり”についてだったからだ。

 知ってか知らずか、落合は続けた。

「俺は秋田の米を食べるよ。でもな、東京で食べるんじゃあ意味がないんだ。米はその土地の水で炊いたのが一番うまいんだ」

《なぜ、唐突にこんな話をするのだろうか……》

 私は落ち着かない気持ちになり、思わず訊いてみた。

 突然やってくる死について考えると、不安にならないのか?

 落合は遠くを見るような目をした。

「別に明日死ぬと言われても騒ぐことないじゃないか。交通事故で死ぬにしても、病気で死ぬにしても、それが寿命なんだ」

 何かを暗示しているような言葉だった。少なくとも私にはそう聞こえた。座席テーブルの上に載ったアイスクリームは汗をかき始め、やがてスプーンが通るくらいの硬さになった。新幹線でのみ販売されているという1つ300円のそれは、忘れられない味がした。私はスプーンを口に運ぶ落合に向かって、ごく自然に問いを発することができた。

 オーナー報告の席で、白井が来季の続投を明言しなかったことをどう捉えているのか? 解任の兆候があることは察しているのか?

 落合は横目でじろりと私を見ると、棘のない声で言った。

「さあな、それはオーナーが決めることだ」

 私は黙ったまま次の言葉を待った。

「いいか、俺たちは契約の世界に生きてるんだ。やりたいとか、やりたくないじゃない。契約すると言われればやるし、しませんと言われれば終わり。それだけだ。だから、もし、俺がやめるとしても、それは解任じゃない。契約満了だ」

 言葉の裏に執着は見えなかった。そうかといって諦観とも違っていた。落合はまるで呼吸をするようにそう言ったのだ。

「契約っていうのは、それだけ重いんだ。オーナーと交わした契約書は家に大事にとってある。俺がやるべきことはすべてそこに書いてある。このチームを優勝させることってな」

 グリーン車の室内に音はなく、新幹線はただ微かに低く唸りながら、西へと向かっていた。

 私は球団関係者に聞いたことがあった。春から球団社長になった坂井克彦は、ともに本社からやってきた代表の佐藤良平と、人件費について調査しているようだ。それは高騰する選手の年俸のみならず、コーチングスタッフ、そして落合の年俸も対象になっているという。

 監督就任時、落合と球団が交わした契約には、成績に応じて年俸が上っていく条項が含まれていた。優勝と3位以内を意味するAクラス入りで、それぞれ増額分が決められており、例えば、3度優勝すれば当初の年俸1億5000万円が倍になるくらいのものだという。その条件は星野仙一も、前任の山田久志も同様だったのだが、他の監督と違ったのは、落合が勝ち続けたことだった。

 7年間でリーグを3度制覇し、Aクラスを逃したことは一度もなかった。そのため、今や落合の年俸は看板選手並みになっているという。

 もし、それが解任の理由に挙げられているならば、契約書通りに仕事をしたことが、自らの首を絞めていることになる。

 私は落合が自宅に保管しているという契約書を想像してみた。

 時として、権力や正義に背を向ける落合を、唯一縛っているものが感情を持たない一枚の書面だというのは不思議だった。一方で、落合が人波に左右されず、時刻表にすら合わせずに歩いていけるのは、そのためかもしれないとも思った。

 私は、落合が穏やかな表情でいる理由がわかった気がした。

 なぜ、新しい球団社長がやってきたのか。なぜ、白井が来年について語ろうとしないのか。おそらく、落合は全てを察しているのだ。

 流れの変化も、迫り来る終わりも感じながら、それでもすべきことは勝つこと、これまでの道を変わらずに歩くことであり、落合が殉ずるのは一枚の契約書だけなのだ。

「ちょっと寝るぞ」

 そう言うと、落合は座席のリクライニングを倒して目を閉じた。

 私の喉元にはアイスクリームの甘さだけが残っていて、そのままひとり最後の晩餐について考えてみた。

 新幹線が名古屋駅のホームに滑り込んだ頃、空には月が出ていた。

 空のサイズに合わないくらいの、異様に大きな月だった。

 落合は別れ際に言った。

「今年は1カ月遅れて始まったんだ。9月、10月にナゴヤドームで連戦があるよな。あそこがヤマだ」

 東日本大震災の影響で変則日程となったこのシーズン、中日は確かに9月の下旬に4連戦、10月半ばに10連戦を本拠地で戦うことになっていた。そのうちの8試合が首位ヤクルトとの直接対決だった。

「まだ、何があるかわからねえよ」

 眼光にいつもの冷たい光を宿した落合は、決して変わることのない歩調で去っていった。

 8月終わりのナゴヤドーム、スタッフ用の白いジャージを着た桂川昇は黒い革製の手帳を持っていた。

 ゲーム中のベンチに立ち、グラウンドを見つめながら時折ペンを走らせる。いつもそうしていた。視線の先にいるのはトニ・ブランコだった。

 中日の4番バッターは2011年のペナントレースが開幕してまもなく右手中指にデッドボールを受けた。その影響で3カ月もの間、戦線を離れており、この日、ようやく1軍に戻ってきたのだ。

 球団の通訳である桂川がメモを取るのは、ブランコが打席で対した投手が誰であったか、カウント、球種、打席結果の詳細を残しておくためだった。通訳として必ずしもやらなければならないことではない。誰かに求められたわけでもない。ただ、ブランコを見ているうちに、そうしようという気になったのだ。

 今やセ・リーグで最も恐れられるバッターの一人となったこのドミニカ人は、日本に来て、このチームに入って人生を劇的に変えていた。

 自らの才能を疑いかけていた男がバット一本で太平洋を渡り、ビッグマネーを手にして、さらに貪欲になっていく。その姿を見ていると自分も何かせずにはいられなかった。

 桂川が初めてトニ・エンリケ・ブランコ・カブレラを見たのは3年前のことだった。

 2008年のオフシーズン、中日に数々のタイトルをもたらした4番バッター、タイロン・ウッズが退団した。ウッズ自身の年齢的な衰えと、補強費の縮小が要因だった。6億円ともいわれる高額年俸の主砲は球団事情に見合わなくなったのだ。

 落合は後釜となる大砲を探すべく、右腕である森繁和を中米のドミニカへと派遣した。桂川はスペイン語の通訳として森に同行し、現地で開催されているウインターリーグを見てまわった。そこにはアメリカ大リーグでメジャー契約を結べなかった男たちが自分を売り出すために集まっていた。原石といえば聞こえはいいが、現実としては売れ残り、敗残者たちであるとも言えた。

飢えを宿した眼光

 桂川が驚いたのは、森がゲームの始まる4時間も前にスタジアムに足を運ぶことだった。亜熱帯の陽射しと湿気を含んだ風に吹かれながら、まだ誰もいないスタンドからグラウンドを見つめていた。

 すると、ラテン系の選手たちの中にも時間を守り、早くから体を動かしている者たちが何人かいた。

 その中のひとりがブランコだった。188センチの長身、骨太の体躯と巨大な尻、ホームランバッターを絵に描いたような男だった。

 現地の関係者によれば、ドミニカ共和国の西部サンフアン州で生まれたブランコは、大リーグの名門ボストン・レッドソックスが現地につくったベースボールアカデミーに17歳で入った。早くからボールを遠くに飛ばす才能は図抜けていたという。

『歩いて海は渡れない』

 ドミニカの野球少年なら誰もが胸に抱いている言葉だ。

 裸足でボールを追いかけ始めた彼らにとって、最終目的地は海の向こう、アメリカ大陸である。メジャー球団と契約して大金を手にするか、さもなくば、さとうきび畑に戻って老いていくか。そのどちらか。

 そしてカリブ海を渡るためのパスポートは、フォアボールを選んで1塁へ歩いても手には入らない。バットでボールを遠くに飛ばす、それしかないのだ。ブランコはその格言通りに少年時代の憧れを実現した。18を前にレッドソックスと契約して海を渡ったのだ。

 だが、夢の大地で待っていたのは乾いた現実だった。チームを移りながら24歳でようやくメジャーにデビューしたが、56試合でホームランはわずか1本、打率は.177。10回に一度しか当たらないバットをアメリカ人は必要としなかった。

 その後はマイナーリーグの底辺であるルーキーリーグから3軍相当の2Aの間を行ったり来たりするようになった。安いホテルに泊まり、ベンチ裏でパサパサのハンバーガーを食べ、ゲームが終われば長距離移動のバスに揺られる。将来を嘱望されていた男は、いつしか“ハンバーガー・リーグ”の住人になっていた。

 ブランコは本当の意味で海を渡ることができていなかった。

 アメリカへ渡るドミニカ人選手は年間数百人にのぼるが、メジャーで生き残れるのはそのうちの2%に過ぎない。バットに当たれば誰よりも遠くに飛ばせる、誰よりも速い球が投げられる、そう自負してきた若者たちが時間の経過とともに自分の力を信じきれなくなっていく。そうやって名も財も残せないまま、カリブ海の水面に消えていく才能がほとんどだ。ブランコはその瀬戸際にいた。

 桂川と森が現地を訪れたのは、そんな時だった。

 桂川は、まもなく28歳になるこのドミニカンに不思議な縁を感じていた。彼は森が観戦したゲームでことごとくホームランを打ったのだ。

 森も何かを感じているようだった。長打力もさることながら、とりわけ、その飢えを宿した眼光に。

(文中敬称略/つづく)

 

source : 週刊文春 2021年1月21日号

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