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第21回「井手 峻 グラウンド外の戦い」

嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか 

鈴木 忠平
エンタメ 社会 スポーツ

「なぜ当然のことを言って非難される」星野に背いた落合は井手を前に吐露した。

 

(すずきただひら 1977年千葉県生まれ。日刊スポーツ新聞社に入社後、中日、阪神を中心にプロ野球担当記者を16年経験。2019年よりフリー。著書に『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』、取材・構成担当書に『清原和博 告白』、『薬物依存症』がある。)

 このまま落合に監督を任せていていいのか? 球団の編成担当である井手峻(たかし)は、本社の役員からそう問われるたび、繰り返してきた。

「落合に任せておけば大丈夫です」

 そう確信するに至る実体験が井手にはあった。

 
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 それは、まだ井手が球団フロントになって3年目の1989年のことだった。平成という時代が幕を開けたばかり、昭和の影が色濃く残る1月半ば、中日の4番バッター落合は、長野県南部の昼神温泉で自主トレーニングを公開していた。

 夫人と1歳半の長男を同伴した――それだけでも当時は異例と言われた――落合は山間に流れる渓流沿いを歩き、切り立った山道を登り、温泉旅館のプール施設で泳ぐ姿を報道陣に披露した。

 ネタ枯れのオフシーズン、チームの看板になるような選手はそれぞれ日時を決めて、報道陣に対応するのが慣例だった。つまり、翌日の紙面には自分の名前が載ると予測できるタイミングで、落合は口を開いた。

「俺は体重計には乗らないよ――」

 野球協約では、12月と1月のポストシーズン、選手は球団に拘束されないと定められている。選手にとって束の間の自由となる2カ月だが、このオフ、中日の選手たちは否が応でも2月から始まるキャンプのことを考えざるをえなかった。

 前年のシーズンが終わった直後、監督の星野仙一から翌年のキャンプ初日の練習メニューが全選手に配布された。さらに全員が秤に乗せられ、ベスト体重を超過した者からは、1キロオーバーするごとに10万円の罰金を徴収すると言い渡されていた。

「球団社長が罰金取るならわかるけど、トレーニングコーチが取るんでしょ。なんでかねえ……」

 落合は解せないようだった。

「俺の身体は俺が一番よく知っている。18歳と35歳が同じメニューはできないだろ。もしオーバーワークで故障したら、罰金以上に俺の年俸が下がるんだ。要するに開幕に間に合わせればいいんだろう。それで罰金なら仕方ない。あとは上の人が判断すること」

 名前こそ出さなかったが、落合の舌鋒が星野に向けられていることは明らかだった。

「昔の選手はこの時期から誰も動かなかったよ。そんな人間が今になって1月10日ぐらいから“動け、動け”って言ってるんだからねえ。昔やっていなかった人ほど、指導者になったらそういうこと言ってる」

 目の前で繰り広げられる“監督批判”に、集まった記者たちがゴクリと唾を呑み込む中、落合は続けた。

「練習は見せるためのものじゃない。要は結果が大事ってこと。今年は三冠王が目標だ。この2年、年俸を据え置かれたし、タイトル獲らないと給料上がらないからな」

 意図したのか、していないのか、いずれにしても落合が発したこの言葉によって騒動の幕は開いた。

 翌日、各紙に大見出しが躍った。

『落合 星野批判』

『落合 星野指令無視』

 中日の内紛は、名古屋だけでなく全国的なニュースになった。

 当時、球団総務部の2軍担当であった井手は新聞を手に息を呑んだ。

 星野が監督になって3年目、これまでそのやり方に異を唱えた者はいなかったからだ。

 1987年、40歳にしてチームを任された星野は、1年目に2位、2年目の88年にはリーグ優勝を果たした。ベテランを放出し、高卒の若い選手に出場機会を与える中でチームを自分色に染めていった。

 ミスや怠慢プレーには鉄拳制裁、罰金という厳罰主義を打ち出す一方、乱闘になれば真っ先にベンチを飛び出し、選手を守った。ミスした者にはその翌日にチャンスを与えた。鉄の掟の下、血の結束を生み出す。

 そんな“ファミリーのドン”を落合は公然と批判したのだ。世の中はそう受け止めた。井手が危惧した通り、波紋は瞬く間に広がっていった。

 星野は故郷・岡山で落合の発言を知ると、顔色を変えずに言った。

「どうしたい、こうしたいと報道陣に言っても仕方ないだろう。スタッフ(コーチ)と話し合えばいいんだ」

 表面上は穏やかだったが、球団は星野の怒りを察して、慌ただしく事態の収拾に動き出した。

 当時の球団社長、中山了(さとる)は報道陣を前に憮然として語気を荒げた。

「星野くんは怒っているだろうね。しかし、星野くんが怒っているから球団が動くのではないよ。あの言動は他球団では知らないが、中日ドラゴンズでは決して許されないものだ」

 事情聴取のため、落合のいる長野県に球団代表を向かわせた。そして、その結果次第では重いペナルティーを科す方針を打ち出した。

 全体主義の監督と、個人主義の4番バッター、その対立構図は人々の関心を惹きつけ、新聞紙面には連日、騒動の続報が掲載された。

 星野の面子を保とうとする球団と、自分の成績を上げるために当然のことを言ったまでだとする落合の言い分は平行線を辿った。ついには宇野勝、小松辰雄、鈴木孝政ら選手会の幹部が落合を説得するために、長野まで出向くという事態に発展した。

 メディアも球団もチームメイトも、落合の側に立つ者は誰もいなかった。落合は孤立していった。

「悪いと思ったから――」

 騒動が決着をみたのは発言から5日後のことだった。

 落合が球団代表とともに名古屋市内の星野邸を訪れ、謝罪したのだ。

 落合は推定100万円とされる罰金に加え、オーストラリアで行われる1軍キャンプではなく沖縄での2軍キャンプに参加することが決まった。

「火付け役は俺だし、悪いと思ったから頭を下げた」

 記者会見を開いた落合は無精髭に苦笑いを浮かべて、ペロッと舌を出した。形としては落合の敗北だった。

 ただ、一部始終を見ていた井手には、それが表面上の決着に思えた。また、なぜこの男はこんな手段に出たのだろうかという疑問が残った。

 舌禍事件が終息してから数日後、井手は社長の中山から折り入って話があると呼ばれた。そこで言い渡されたのは思いもかけない任務だった。

『キャンプ中、落合をマスコミと直接しゃべらせるな』

 1軍から離れ、2軍キャンプで調整する落合を野放しにしておけば、またいつ星野への批判を口にするかわからない。そう危惧した球団が考えたのが、筆談による取材だった。

 井手はその窓口を任されたのだ。

 1月31日、キャンプイン前日、沖縄県具志川市にある2軍の宿舎、春日観光ホテルのさほど広くないロビーは報道陣でごった返していた。ほとんど全てが落合目当てであった。

 井手はペンとカメラの群れを集めて、こう告げた。

「今後、落合への取材は全て私を通してもらいます」

 そこからプロ野球史上例のない筆談キャンプが始まった。

 井手は日々、落合の言葉を聞き続けることになった。『取材依頼書』と印刷されたA4用紙に、報道陣が各社総意の質問を書き込んでくる。井手は練習を終えた落合のところへその書面を持っていき、回答を聞き出して、またメディアに戻す。

 その作業を繰り返す中で、井手は自分の中で描いていた落合の人物像を劇的に変えていくことになった。

 落合は球団主導の、このどこか滑稽な筆談取材に正面から答えた。

 1文節ほどの短い返答だったが、それが契約した球団との約束事ならばと、一問一問すべてに対応した。

 落合とやりとりをする中、野球談義になることもあった。そんな時は2人して外に出た。ねっとりした海風の吹く、真っ暗な路地を抜け、具志川市内の居酒屋に場所を移した。

 杯を重ねてみて井手は驚いた。反逆者のイメージが強かった落合の口から語られる野球論は、誰よりも論理的だった。基本技術から、守備陣形という戦術まで、指導者をしのぐほどの知識を持っていた。

 例えば内野フライを捕る時、なぜしゃがみながら捕れと教えないのか。落合はそう言って首を傾げた。

 井手は深く頷いた。現役時代、投手を廃業して野手に転向した時、最も苦労したのがフライの捕り方だった。特に遠近感のつかめない飛球は、プロの選手でもグラブで迎えにいってミスすることがある。落下してくるボールを引きつけて捕るには、しゃがみながら捕るのが最も理に適っている。何万のノックを打つより、それを教える方が効果的ではないか。

 落合は、井手がコーチを経験してようやくわかったことをすでに頭に入れていた。教科書には載っていない、野球の真理を知っていた。

「お前、どこで教わったの?」

 思わず訊いた井手に、このチームの外れ者はニヤッと笑って、やはり一言で返した。

「独学」

 井手には、和を乱すと捉えられる落合の言動が筋の通ったものに思えてきた。そして、その合理性は野球だけではなく、人間としての些細な日常にまで垣間見えた。

 井手はキャンプの1日が終わると、よく2軍監督の岡田英津也の部屋に行った。星野から“トラブルメーカー”を預けられた格好の岡田は落合の話を聞くのが好きだった。

「落合を呼ぼう」

 岡田が言うたび、井手は落合の部屋に電話をかけた。すると、落合は決まって、こう訊いてくるのだ。

「どんな酒がありますか?」

 2軍トップである岡田の部屋には贈答品の高級ブランデーやウィスキーが置いてあった。落合は電話口でそれを確認してから、ひょっこりと岡田の部屋にやってきた。

 落合は自分の理屈に合わなければ、誰の命令でも動かなかった。なるほど、星野のチームでこの男は浮くだろうなと、井手は思った。

 星野が監督になった1986年のオフ、ロッテから1対4の大型トレードでやってきたのがパ・リーグ三冠王の落合だった。

 星野と並んだ入団会見、臙脂(えんじ)のダブルで決めた落合は言った。

「男が男に惚れました」

星野監督、中山了球団社長(写真右)と行った入団会見

 落合はいわば、星野が率いる新生ドラゴンズの目玉であった。

 だが、チームの中に個人があるとする星野と、オレ流と表現される落合の相剋は時とともに浮き彫りになり、両者の間に溝をつくり、ついに舌禍事件として露呈したのだ。

 落合の合理性は、この組織では叛逆であり、エゴとみなされた。

 沖縄でのある夜、井手がいつものように落合と語らっていると、この世界における組織と個人についての話になった。

 雇用の保障されたサラリーマンならいざ知らず、球団と契約したプロ選手を縛るものは、契約書のみであるはずだ、契約を全うするためにどんな手段を選ぶかは個人の責任であるはずだと、落合は言った。それなのになぜ、当たり前のことを言った自分がこうも非難されるのか。そう語る落合の目に涙が浮かんでいた。

 井手はそれを見て気づいた。

《落合はまだ戦いをやめていない》

 孤立して逆風を浴びているように見えるが、じつはあの舌禍事件で落合が手に入れたものもあった。罰金や謝罪と引き換えに、星野から離れて静かな沖縄で自分のペースで身体をつくる権利である。そう考えれば、あの発言はやはり確信犯だったようにも思えてきた。

 独り静かな戦いを続けたそのシーズン、落合は打率.321、40本塁打、116打点という圧倒的な結果を残した。チームは3位に終わったが、史上初めてとなる両リーグでの打点王となり、オフには日本人選手最高年俸1億6500万円での契約を勝ち取った。

 井手は孤立をエネルギーにするような、その無言の勝利に戦慄した。

「戦う落合は強い――」

 監督とフロントマンという立場になってもその像は消えなかった。どれだけ状況が苦しくても、むしろそういう時にこそ落合は勝つ。その確信が井手にあの台詞を吐かせた。

「落合に任せておけば大丈夫です」

 だが、2011年の春、井手のこの言葉は宙に浮いてしまった。

 球団には新しい社長として坂井克彦、代表として佐藤良平という人物が本社からやってきた。2人はこれまでの球団トップとはまったく別のところを見ていた。勝敗とは無関係の、いわばグラウンドの外である。

 2011年7月22日、球団事務所には午前中から落合が来ることになっていた。オーナーの白井文吾に、前半戦終了の報告を行うためだ。

 オールスター戦による中断期間を迎えた時点で、セントラル・リーグの首位はヤクルトだった。ここ数年、三つ巴を繰り返してきた巨人でも、阪神でもなく、9年間優勝のないダークホースが突っ走っていた。落合の中日は、そのヤクルトから8ゲーム離された2位にいた。楽観と悲観が相半ばする状況をオーナーがどう評価するか。例年であれば、そこが焦点となるはずだった。

 だが、今や球団と本社の間ではまったく別の駆け引きが蠢いていた。

 その日の朝、井手はいつものように鏡の前でネクタイを締めた。現場の人間ではなく、フロントマンたる証――井手は出張に赴くと、横浜元町にある洋館風の紳士服店に寄ることがあった。東大時代から行きつけのその店で目についたネクタイを買い求めるうち、100本近くになっていた。いかに長くこの球団の背広組として働いてきたかを物語っていた。

 そんな井手でも、今、直面しているような事態は経験がなかった。

 節目のオーナー報告、落合との会談を終えた白井は報道陣に向かい、声を上げずに笑った。

「8ゲーム離されているが、逆転できない数字ではない。9月がヤマ場になるだろうと、監督はそう言っておったよ」

 顔の造形は確かに笑みをつくっているが、小さな黒眼には感情が浮かんでいない。中日グループの総帥は、よくそういう笑い方をした。

 白井の発言を聞いた報道陣には、一瞬の間ができた。もうひと言、あるだろうと踏んでいたからだ。

 これまで白井は、この会談の場で落合の去就を明言してきた。最初の3年契約が切れるときも、次の2年契約が終わるときも、シーズンの終わりを待たずに早々と続投を決めてきた。

 だから、その場にいた多くの人間が、この日も落合の去就について何か語るのではないかと考えていた。

「監督の去就は成績次第か」

 だが、白井は落合の進退については触れなかった。番記者の中からは当然の問いが発せられた。

――落合監督は今年で契約が切れますが、去就についてのお話は?

 今度は白井が間をおいた。貼りつけた笑みはそのままに、言った。

「私の中に考えはあるが、まだ球団で話し合っていないし、今、バラしてしまっては具合が悪いんだよ」

 思わせぶりな言葉だった。だから、二の矢が飛んだ。

――落合監督の去就は成績次第ということですか?

 白井はその質問が終わらないうちに、今度は間髪入れずに言った。

「それは関係ない――」

 顔の造形はもう笑みではなくなり、2つの黒い眼は、どこまでも闇が続く深い洞穴のようだった。二の句を継がせない空気を発散しながら、白井はその場を去っていった。

 後には思案するような沈黙が残った。プロの監督を、まして落合を勝敗で判断しないとすれば一体何で測るのか、そんな疑問が渦巻いていた。

 傍らで見守っていた井手には、白井の言葉の意味がわかっていた。

 2011年のシーズンが始まってから、新社長の坂井と代表の佐藤が調査したのは球団の人件費問題だった。ナゴヤドームの観客動員が伸びなくなり、赤字を抱えるようになった球団財政を圧迫するものがそこにあると踏んでいるようだった。人件費とはつまり勝ち続けることによって高騰した選手、コーチングスタッフ、そして落合の年俸であった。

 坂井は時折、球団事務所から数分のところにある本社に出向いていた。白井に会っているようだった。

 落合を擁護してきた白井には、球団オーナーとともに中日新聞社会長という肩書きもある。大島派を中心にした本社内の反落合勢力だけでなく、球団トップまでが、財政面を根拠に現体制への疑義を示せば、白井も耳を傾けざるを得ないだろう。

 戦う落合は強い、それは確かだ。だが、去就は勝敗を超えたところで議論されていた。井手はこの問題がもう、自分の手の及ばない次元にいってしまったことを感じていた。

(文中敬称略/つづく)

 

source : 週刊文春 2021年1月14日号

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