8月22日の横浜市長選で敗れた小此木八郎・前国家公安委員長(56)は、その数日後、永田町にいた。政界引退のあいさつ回り。自民党議員が「また戻ってきて下さい」と言うと、小此木氏は「もう悔いはない。思う存分戦いましたから」と日焼けした顔に笑みをたたえた。小学生の時から野球で汗を流し、玉川大学のエースピッチャーだった小此木氏の吹っ切れた姿は、甲子園を後にする高校球児のようだった。
党の国会対策委員会や衆院の議院運営委員会を中心に活動した「国対族」。日頃の駆け引きを通じて野党人脈も広く、旧知の立憲民主党議員にもあいさつに回り、「八っちゃんらしい律義さだ」(自民党関係者)。全面支援を受けた菅義偉首相の不人気こそが最大の敗因だったとの見方が広がるが、菅氏への愚痴も漏らさず、立つ鳥跡を濁さない見事な引き際と評判になっている。
政治部デスクは「小此木氏にとって市長選への立候補は複雑な因縁が重なっていた」と解説する。
まずは地元政財界に強い影響力を持つ「ハマのドン」藤木幸夫・藤木企業会長との親子二代にわたる因縁だ。
「父・彦三郎氏も市長選に出ようとしたが、藤木氏に止められた。父の無念を晴らすための出馬でもあった」(自民党横浜市議)
菅氏との因縁はより深い。2人の関係は半世紀近い。菅氏は20代の時から小此木彦三郎元通産相の秘書を務める。就任当時、三男の八郎氏は小学生だ。こうした経緯から、古くからの小此木家の後援者の間には「あの菅が首相にまで登り詰めた。いつまで父親の秘書の下にいるのか」と、小此木氏に「脱菅」を求める声が出ていた。小此木氏の市長選出馬には、鶏口牛後の思いがあったのだ。
もう一つの因縁話は2009年にさかのぼる。菅氏は党の選挙対策副委員長として、衆院選の公約に世襲制限を盛り込むよう旗を振っていたが、党内には「世襲制限は菅氏の私憤だ」(派閥領袖)との見方が強かった。彦三郎氏は1991年、衆院議員会館の階段で転落し、頭を強打して逝去。八郎氏が三代目として地盤を譲り受けたが、面白くなかったのは菅氏。秘書から横浜市議に転じていた当時、既に「影の市長」と呼ばれており、「彦三郎氏の後は当然自分が継げるものと思っていた」(前出・市議)。結局、菅氏は1期遅れて96年に隣の選挙区から国政へ。この時の恨みが世襲制限の主張に繋がったという。
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source : 週刊文春 2021年9月9日号