あなたは心を見失っていないか? いや、そもそも今の社会では、心のための場所が消えてしまったのではないか?
そう問いかけているのが、臨床心理士である東畑開人さんの新刊『心はどこへ消えた?』だ。私たちは、コロナ以前には巨大な経済の不安定さに右往左往させられ、コロナ禍では社会の大きな変動に振り回された。そういう時代に、それぞれの小さな心たちは管理され、閉じ込められ、はかなくもかき消されてしまう。
『心はどこへ消えた?』で描かれているのは、心が見失われ、そして再発見されるまでの物語たちだ。命がけの社交、悲惨な中学受験、過酷な働き方、綺麗すぎる部屋、自撮り写真、段ボール国家、巧妙な仮病。カラフルなエピソードを読み進める中で、あなたの、そしてあなたの大事な人の心のありかが浮かび上がってくる。
以下は、同書に収録されているエッセイ「午前四時の言葉たち」。申し分のない人生を送っているように見える40代男性が、心を再発見するまでの小さな物語を紹介する。
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午前4時の言葉たち
「『忙しい』という字は『心を亡くす』と書くんだぞ!」かつての指導教員が口癖のように言っていた。その大教授は本当に忙しそうで、杖をついて、いつも構内をセカセカと走り回っているような人だった。一度、トイレで鉢合わせしたときなんかは、光の速さで用を足しながら、ユングだなんだとしゃべり散らかし、挙句の果てに杖を忘れて出ていったので、同級生と大笑いしたものだ。杖まで亡くすだなんて、心を亡くすにもほどがある。
ただ、それを笑えていたのは、私が時間を持て余した学生身分であったからだ。こうして中年になって、大学業界の末席を汚すようになると、心がいとも簡単に亡くなってしまうことを痛感する。杖の代わりにスマホを握りしめ、講義から会議へまた講義へとセカセカ走り回る。飛び込んでくる用件を卓球のように打ち返し続ける。トイレも昼食も光速だ。自分が反射神経だけで作られた生物であるような気すらしてくる。
だけど、そんな忙しい中年にも亡くしたはずの心と再会する瞬間がある。ふと目が覚めてしまった「魂の午前4時」だ。それは夜でも朝でもない刻で、もう昨日ではないけど、まだ今日もきていない。ナメクジのようにトイレに這っていき、もう一度眠ろうと布団に戻る。しかし、眠れない。頭の中で、言葉がグルグルとめぐり始める。普段は考えないようなことが浮かび、しばしとどまる。この午前4時の言葉たちは、朝日が射すとはかなくも消えてしまう。反射神経の世界が始まると、思い出せなくなってしまう。
モノローグの男
胸板の厚いマッチョな男性は、40代半ばという脂の乗り切った年齢だった。彼の経営するベンチャー企業は順調に成長していたし、多くの友人に囲まれ、家族にも恵まれていた。彼は熱心にジムに通い、筋肉を鍛え上げていた。申し分のない人生のように見えた。だけど、「誤魔化しながらやってきたけど、自分はうつだと思う」と彼は訴えていた。
詳しく話を聴くと、彼のエネルギッシュな生活には、まだらのようなうつがあった。一日のうちの1、2時間、頭がぼんやりして何も考えられなくなることがしばしばあって、ひどい時期には数日にわたって、動けなくなってしまうこともあった。そういうとき、「ほっといてくれたら回復するから」と家族や社員に説明し、彼は自室に閉じこもった。あらゆる連絡を絶った。
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source : 週刊文春出版部