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眞子さま「自由も人権もない」“苦悩と強情”29年

「週刊文春」編集部

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「平成」の世になって3年後に、当時の天皇の初孫として生を享けた眞子さま。“自由な次男坊”の家の長女の立場は、14歳の時に一変した。次代の天皇の姉への注目、不自由な生活の苦悩、そして小室さんと出会い……

「残念の一言です。宮家の結婚は、『当人同士が良ければそれでいい』というものでは決して無い。国民の祝福もないまま、眞子さまは本当に、幸せがつかめるのか……」

 眞子さまが学習院初等科時代に初等科長を務めていた斉藤進氏は、小誌の取材にこう嘆息した。

 10月1日、宮内庁から正式発表された、秋篠宮家の長女・眞子さま(29)と小室圭さん(30)のご結婚。お二人は10月26日に婚姻届を提出されるが、一時金は支給されず、結婚関連の儀式も行われないことが改めて公表された。

 
 

 だが、最も国民を驚かせたのは、眞子さまのご病気が明かされたことだった。

「会見に臨んだ加地隆治皇嗣職大夫は、眞子さまが『複雑性PTSD』と診断されたと述べたのです。眞子さまは中学生のころから誹謗中傷と感じられる情報を目になさり、それが精神的な負担になっていたとも明かしました。大夫としての受け止めを訊かれて、加地氏が涙で声を詰まらせる場面もありました」(宮内庁担当記者)

級友からは「まこしー」

 今回明かされた「複雑性PTSD」とはどのような病気なのか。

「大震災や犯罪被害のように、脅威を感じる体験にさらされて起こるのがPTSD。それが長期的に反復されるのが『複雑性PTSD』で、児童虐待やDVを受けてきた人に見られる病気です。この患者さんには、従来のPTSDの症状に加え、感情のコントロールが上手くできなくなる、人間関係がうまく築けなくなる、自己評価が低下する、などの影響があります。拒食症や肥満といった身体症状が現れることも多く、通常は普通に働くことが困難になります」(福井大学子どものこころの発達研究センター・杉山登志郎客員教授)

 会見には宮内庁皇室医務主管の永井良三自治医科大学学長と、眞子さまの診断にあたった精神科医の秋山剛NTT東日本関東病院品質保証室長が同席。秋山氏は、眞子さまが婚約延期となった2018~19年ごろから「人間としての尊厳が踏みにじられている」と感じられ、「人生が壊されるという恐怖感が持続している」状況だと述べた。

 会見での配布資料では、自身の経歴として〈世界精神保健連盟 次期理事長〉と自己紹介した秋山氏。「在日外国人のメンタル相談や、うつ病患者の復職支援に熱心に取り組んできた」(医療ジャーナリスト)人物だという。だが、前出の記者は首を傾げる。

「宮内庁には、医務主管を筆頭に、皇族の方々の体調管理にあたる医師らがいる。お代替わりで皇嗣となられた秋篠宮さまご一家に対しては、新たに『皇嗣職侍医』のポジションが設けられました。ですが、それらのいずれにも秋山氏の名はありません」

 この秋山氏について調べていくと、意外な人物との“接点”が見えてくる。18年に刊行された『これならできる 中小企業のメンタルヘルス・ガイドブック』(金剛出版)。ここで秋山氏とともに編著を担当しているのが、精神科医の大野裕氏。雅子さまの適応障害の主治医なのだ。さらに、08年にも『うつ病の集団認知行動療法』(医学映像教育センター)を2人はともに監修している。

雅子さま

「大野氏は04年、皇太子殿下(当時)の人格否定発言の後に雅子さまの診療にあたり、主治医となりました。毎年、雅子さまの誕生日には、ご本人の文書とともにご体調に関する『医師団見解』が公表されますが、これは大野氏が書いているとされています」(同前)

 大野氏に尋ねた。

――秋山先生を眞子さまに紹介されたのですか?

「いや、私は全く。(秋山氏は)東京大学を出られた方なので、その関係ではないでしょうか。宮内庁の医療職は基本的に東大の方。(慶大出身の)私が雅子さまの主治医になったときは、驚かれたくらいですからね」

 会見では、「眞子さまはご自身や小室さん周辺に対する誹謗中傷が続いたことで精神的苦痛を感じ」と強い表現が使われ、一時金についても、「(プロポーズ翌年の)14年にはご両親や小室さんに、一時金を受け取りたくないというお気持ちを伝えておられた」とかなり前からの意向だった旨が強調された。

 ある宮内庁関係者は、病状の公表を含め、会見で説明された内容に、眞子さまの“強いご意志”を感じ取ったという。

「眞子さまの内面を加地氏が勝手に話せるはずがなく、眞子さまがこうした説明を望まれたと考えるのが自然です。常に物事の筋道を通す眞子さまらしく、結婚や一時金辞退に至るロジックをしっかり立てておられると感じました」

 宮家の長女、そして次代の天皇の姉という運命を背負った“苦悩”と、そんな中でも意思を貫き通す“強情”を胸に秘め、眞子さまは29年間を過ごしてこられた。

 1991年10月23日。当時の天皇の初孫として、眞子さまは生を享けた。平成皇室の慶事に、国民は沸いた。

 じつは眞子さまの「眞」の字は、正式には「目」の下がくっついた特殊な字体。25歳で父となった秋篠宮は、こうした細部にもこだわって名づけをされた。

 

 眞子さまが学習院初等科2年生のときには「野原のたんぽぽ」という題の、こんな詩を書かれた。

〈たんぽぽが/春でもないのにさいていました

 さむそうだから/かれはのふとんと/すずかけのみのふわふわふとんを/かけました

 かめさんは/池の中はさむいのに/よくねむれるね

 たんぽぽさんと/ねたらいいのに〉

 季節外れのたんぽぽを慈しみ、池の中の亀に思いを馳せる――。そんな詩からは、命あるものへの温かな視点と、細やかな気配りが滲み出る。

 読書好きな一面もあった。高学年のころには、上橋菜穂子氏の人気小説『精霊の守り人』シリーズに夢中に。女用心棒が、命を狙われている皇子を守りながら冒険するファンタジーだ。読んだ本のことを両親に話されることも多かった。

 多感で繊細な少女は、学校ではごく普通の児童だった。級友からは「まこしー」という愛称で呼ばれ、休み時間は鬼ごっこやドッジボール、大縄跳びに興じた。友人と些細な喧嘩をすることもあったが、眞子さまは「きちんと話したい」と仲直りを望まれた。教師たちも、一般の児童と分け隔てなく眞子さまと接した。

愛子さまを抱く雅子さまと散歩する眞子さま(小5)

 一方で、送り迎えには眞子さまにだけ、必ず護衛がついた。授業参観でも、自身の母親だけはぞろぞろと護衛を引き連れていた。こうした環境は、徐々に、少女に“自分は普通とは違う”という自覚をもたらしていった。

「夏休みに、学習院大学の目白キャンパスで講義を受ける機会がありました。小学生にとっては話が難しく、飽きて椅子を揺らしたり寝てしまう子も多い中、眞子さまは背筋を正し、凜として話に聞き入っていました」(同級生)

 日本画の保存や修復、歴史を研究する学者を志していた眞子さま。初等科の卒業式の後、初等科長だった斉藤氏(前出)は秋篠宮家に招かれた。そこで眞子さまをこう褒めたという。

「将来の夢もしっかり持っていらっしゃる。夢が実を結ぶようにお育てください」

 当時、一大ブームを巻き起こしていたのが、カメラ付き携帯電話だ。人々は手軽に写真を撮ることができるようになった。皇族の方々にも、一般の人のカメラが向けられるようになった。眞子さまと妹の佳子さまは、四方八方からの視線に敏感に反応されるようになった。それを不憫に思われたのが、秋篠宮だった。

 秋篠宮は、幼いころから娘たちを、国内の様々な場所に連れて行きたいと望んでおられた。しかし、行く先々でカメラを向けられるのでは、娘たちの負担になってしまう。眞子さまが中1のころ、秋篠宮は、自身のライフワークである家畜の研究を長年ともにしてきた林良博国立科学博物館前館長に、相談を持ちかけられた。

「カメラを一切気にしないで、(娘たちを)自由にさせたい」

 東京大学の農学部長を経験していた林氏は、同大が所有している北海道富良野市の演習林を提案した。夏休みを利用した、3泊4日の小旅行。演習林の職員の子どもたちがチームを作り、眞子さまと佳子さまを迎えた。毎日山登りをしたり、眞子さまが林氏から、学校で習われたばかりの方程式を教わったり。勉強中、興味津々でまとわりつかれる佳子さまを、眞子さまは優しく「しっしっ」と遠ざけられた。

 皇族という特殊な立場に置かれながらも、周囲の人々の支えを得て、伸び伸びと成長なさってきた眞子さま。

 だが――。秋篠宮家はこのころ、大きな転換点を迎えていた。06年2月、NHKが紀子さまのご懐妊を報道。妊娠6週目でのことだった。同年9月、眞子さまが中3のときに、長男の悠仁さまが誕生。これまで“自由な次男坊”とされた秋篠宮のご一家は、一転して“将来の天皇”を戴く家となったのだ。

悠仁さま誕生の際、病院に到着した眞子さま(右)と佳子さま

 当時、次代の皇室には女性しかいなかったことから皇統の危機が叫ばれ、女性天皇、女系天皇を認めることや、女性皇族が結婚後も皇室にとどまり、その夫も皇族になることなどを記した「皇室典範に関する有識者会議の最終報告」が取りまとめられていた。

中3の夏休みにはウィーンにホームステイ

 皇統の危機を救った秋篠宮家への注目度は、否が応でも高まり、人々の関心は、眞子さまにも向けられた。07年に学習院女子高等科に入学されたころには、ネット上で「眞子さま萌え」という言葉が流行。眞子さまをモチーフにしたイラストや動画が頻繁に投稿されるようになった。中には水着姿などの、過激なものもあった。同年代の女子高生と同様に、ネットにも自然に親しまれてきた眞子さまは、ネット上の掲示板などもかねて御覧になっていたという。

 10年、国際基督教大学(ICU)に入学された眞子さま。皇族として外国人と接する機会が多いため、国際感覚を磨きたいというのが志望動機だった。

「初対面では『秋篠宮眞子です』と自己紹介していました。電車で通学していること、家はお小遣い制でお風呂掃除は自身の担当であることなど、こちらの質問に何でも答えてくれました」(同級生)

 楽しげに「妹と弟が可愛い」と語られた眞子さまは、男性のタイプを尋ねられ、こう答えられた。

「三浦春馬や佐藤健が好き」

中3の卒業文集

「この生活から抜け出したい」

 一方で、人見知りの一面も見せていた。友人の輪の中に知らない学生が入ると、その学生とは目をなかなか合わそうとされない。そこには“皇族として見られている”という緊張感が常に漂った。宗教学の授業では、教授から敢えて難しい質問をされることもあった。だが、眞子さまは歴史的背景を踏まえながら論理的に答えられた。

 11年には、所属していたスキー部の合宿での写真がネット上に流出。ツーショット写真に写った男子学生がボーイフレンドではないかと話題にもなった。だが実際には、その翌年に留学説明会で出会った小室さんが“初恋”だった。

 10代のころから、皇族としての自分にぶつけられる周囲の視線に、繊細な心を震わせてこられた眞子さま。そんな眞子さまに、留学説明会で気兼ねなく話しかけ、翌月には早くもデートに誘ったのが、小室さんだった。彼が眞子さまの心のひだにそっと触れることのできる唯一の存在となるのに時間はかからなかった。

 当初から眞子さまは結婚を意識され、交際スタートから約1年後の13年には、小室さんを両親に紹介。この年の12月、小室さんからプロポーズを受ける。22歳の眞子さまはすぐにでも結婚を望まれたが、秋篠宮に「国民に恩返しをしてから」と窘められた。

 眞子さまが早くから、結婚にこだわられた理由――。小室さんとの交際中、それを周囲に語っておられたのが、佳子さまだった。

 佳子さまは姉のことを「眞子」と呼び、眞子さまも事あるごとに「友人のような仲」と語ってこられた。同じ運命を背負った姉妹。佳子さまは、2人の苦悩をこう吐露された。

「自由がない、人権がない。早くこの生活から抜け出したい。これは、姉も同じ気持ち」

 確かに、戸籍もパスポートもない。選挙権も被選挙権もなく、職業選択の自由もない。小室さんとのデートにも、常に警護がつく。そうした苦悩から抜け出す手段は、結婚しかない。それが現実だった。

 待望の日は、予期せぬ形で早まった。17年5月、NHKが眞子さまの婚約内定をスクープしたのだ。同年9月、婚約内定会見に臨まれた眞子さまは、こう述べられた。

「婚約の発表の具体的な時期が決まる前に突然に報道されたことにより、多くの方にご迷惑をおかけし申し訳なく思っております」

 祝福ムード一色の中、敢えて「突然の報道」に言及されたところに、慶事ですら自身の思い通りに進めることのできない眞子さまのもどかしさが滲み出ていた。会見前にメディアの取材に応じた小室さんに対し、眞子さまが「甘いのよ!」と叱られたこともあった。とはいえ、眞子さまは幸せの絶頂だったに違いない。同年12月に「週刊女性」が、小室さんの母・佳代さんの金銭トラブルを報じるまでは――。

 この報道で、進んでいた新居探しも取りやめに。翌18年2月、結婚の延期が発表された。

〈昨年5月、予期せぬ時期に婚約報道がなされました。このことに私たちは困惑いたしました〉

 延期にあたり発表された文書でも、眞子さまはこう綴り、予期せぬ報道への怒りを再び滲ませられた。

 結婚延期からしばらくして、眞子さまは体調の異変を訴えられるようになる。不眠や食欲の減退が見られたが、このときは1カ月ほどで回復された。

 7月にはブラジルをご訪問。11日間かけて、サンパウロやリオデジャネイロなど14都市を巡る、精力的なご公務だった。眞子さまを出迎えた現地の幼稚園児が泣き出すと、眞子さまはこう気遣われた。

「熱中症かしら。長く待たせ過ぎてしまったかもしれないわね」

 ご自身の問題を抱えながらも、周囲に気を配られる繊細さは変わらなかった。

 一方、結婚問題をめぐって、眞子さまは両親との溝を深めていった。金銭トラブルについて、小室さんから、元婚約者が「返してもらうつもりはなかった」と述べた隠し録音の存在を聞かされていた眞子さまにとって、結婚を取りやめる理由は何もなかった。両親も、初めて小室さんを紹介したときは、彼を手放しで褒めていたはずだ。それなのに、なぜ結婚を反対されなければならないのか……。一時期は一つ屋根の下にいても、事務的なやりとりをメールで交わされるほど、親子の仲は冷え切っていた。

 この年の11月の秋篠宮ご夫妻の会見では、紀子さまが眞子さまの体調不良に触れられ「長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうかと、私は大変心配でした」と述べられた。これが、眞子さまの更なる怒りを招いた。このときの紀子さまは、眞子さまに直接、体調を慮るような言葉をかけることができていなかった。にもかかわらず、慈愛に満ちた母親を演じているかのような紀子さまの口ぶりに、眞子さまは“お母さまとは絶対に口を利かない”と頑なになられた。19年の秋ごろまで、母娘の断絶は続いた。

 

 そんな中でも、眞子さまが懸念されたのが悠仁さまだった。結婚問題で、両親と意見が異なるのは、もはや仕方がない。ただ、そうした家庭内の雰囲気が、思春期に差し掛かっている悠仁さまに悪い影響を与えるのではないか――。眞子さまは、妹弟思いの長女らしい心配をなさっていた。

先月15歳になられた悠仁さま

 この頃、結婚問題は暗礁に乗り上げていた。18年8月に小室さんが渡米して以降、秋篠宮家周辺では「眞子さまも、彼と遠距離になれば冷静になられるはずだ」という声も聞かれた。19年から始まった小室家側代理人・上芝直史弁護士と佳代さんの元婚約者との交渉も、進展が見られない。そんな最中の19年12月、眞子さまは翌年11月に発表することになるお気持ち文書の素案に、こんな趣旨のことを記された。

〈20年12月に結婚する〉

 小室さんがフォーダム大を卒業して就職し、生活基盤が整うのは早くても21年秋。周囲からの反対は必至な行程表だったが、眞子さまは自ら局面打開に向けて動き始められた。

 20年初頭には、眞子さまは宮内庁参与に結婚問題を相談された。宮内庁参与は天皇の相談役であり、本来、宮家の皇族の私的な相談相手になることはない。異例の出来事は、眞子さまの結婚が、令和皇室全体の問題であることを示していた。平成の時代に天皇(現上皇)が目指された「国民と共に歩む皇室」が大きく揺さぶられていた。

 眞子さまはこのとき既に、一時金辞退や、結婚関連の儀式を行わないことなどを提案されていた。そして、こんな“禁断の一手”まで口にされた。

「皇籍離脱して、それから結婚する」

“公”のお金や施設を使う、皇族としての結婚が国民に反対されるのなら、皇籍離脱し、“私人”になってから結婚する――。「自由も人権もない」という“苦悩”から抜け出すにはそれほどの“強情”さが必要だった。ある参与は、皇籍離脱だけは必死に引き留めた。

 眞子さまは、11月には結婚について、改めて文書を発表された。

〈この結婚について否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております。しかし、私たちにとっては、お互いこそが幸せな時も不幸せな時も寄り添い合えるかけがえのない存在であり、結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です〉

 中学時代から感じてきた国民からの“視線”を振り払い、皇室という頸木(くびき)から解き放たれるための手段は、現実的には結婚しかない。その相手は、これだけ批判を浴びてもなお、二度にわたる金銭トラブルの説明文書の公表など、努力を続けてくれる小室圭さん以外にいない――。

 だからこそ眞子さまは、小室さんが今年4月に二度目の文書を公表した際、自身も矢面に立とうとされた。小室さんが元婚約者に解決金を支払おうとしてこなかった理由を記した部分について、加地氏がわざわざ「眞子さまのご意向が大きい」と説明したのだ。

 結婚延期から3年8カ月。眞子さまは、国民の納得や祝福を諦めることと引き換えに、ようやく自由をつかもうとされている。

 一方、そんな眞子さまとの新生活のため、NYでの就職を勝ち取った小室さん。勤務先は「ローウェンスタイン・サンドラー法律事務所」。企業法務が専門で、破産案件などで急成長している中堅事務所だ。公式サイトの小室さんを紹介するページには、小室さんが企業法務やテック企業を担当することが記されている。

 だが、このページの「Education(学歴)」の記載が、物議を醸している。

 問題となったのは、小室さんがフォーダム大学のJD(法務博士)コース在籍中に獲得したとされる〈JFK Profile in Courage Award〉。これは、ジョン・F・ケネディの功績を称え、優れた政治的リーダーシップを発揮した人物に贈られる賞と全く同じ名称だ。

「17年にはバラク・オバマ元大統領が受賞した栄えある賞ですが、受賞者のリストに小室さんの名前は無い。ネット上でそうした指摘が相次いだためか、後日、サイト上での記載は〈Fordham's JFK Profile in Courage~〉と、『フォーダム大学の賞』であることを強調した表現に変わりました」(前出・記者)

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眞子さまが会見を“振り付け”

 だが、フォーダム大学の公式サイトを見ても、この賞に関する記載は無い。一体、どのような賞なのか。小誌が取材を進めたところ、小室さんが昨年、NYでの就職活動で使用していた経歴書にも同賞に関する記載があったことが分かった。

 経歴書を見た人物が語る。

「経歴書には確かに〈JFK Profile in Courage Award~〉を受賞したと記載がありました。賞の名称の後には注釈が記され、『フォーダム大の起業家法クリニックで最も勤勉で優れたインターン生に与えられる賞』とされていました」

 同大の起業家法クリニックは、NYのスタートアップ企業に無償で法的アドバイスを行う機関。ロースクール生はそこでのインターンを通じ、企業法などを実践的に学んでいくのだ。小室さんは19年1月から5月、インターンを行っていたという。

「要するに、ロースクールのプログラムの一環でインターンを行い、そこで頑張ったという賞なのだと思います。学内で1人しか表彰されない名誉ある賞ならともかく、その程度の賞を経歴書に記載している例はあまり見たことがない」(同前)

 それだけではない。小誌は9月27日、JFK賞の存在を確認するため、フォーダム大の広報担当者に問い合わせた。だが、「賞の有無」という簡単な質問にもかかわらず、なかなか回答がない。4日後になって広報担当者からようやく得た返答は、以下のようなものだった。

「私は何の情報も持っていない。無いものを共有することはできません。私たちがコメントを提供することはありません」

 小室さんのインターン先だった起業家法クリニックの関係者もこう首を傾げる。

「JFK賞の存在を聞いたことがないのです。今回、小室さんが経歴に記載しているという知らせを受けて改めて調べてみたのですが、そのような賞を見つけることはできませんでした」

 小誌は小室さんの代理人である上芝弁護士に、JFK賞について尋ねたが、回答はなかった。

 現在、NYから帰国し、新型コロナ対策による約2週間の自主隔離期間中である小室さん。眞子さまと再会されるのは、隔離が終わる10月11日以降となる。

9月27日に帰国した小室さん

「10月26日に婚姻届を提出した後、2人はそろって会見に臨まれる予定です。かつて小室さんの報道対応を叱られた眞子さまですから、今度の会見でも自ら“振り付け”をなさるでしょう。眞子さまは、国民への説明が求められているからという受け身の姿勢ではなく、むしろ会見でご自身から仰りたいこともおありのようです」(別の宮内庁関係者)

 宮家の長女として公務に励み、その責任を全うしてこられた眞子さま。その門出を心から祝福できることを、国民は皆、願っている。

source : 週刊文春 2021年10月14日号

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