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中日・山井大介 「嫌われた監督」筆者が明かす長寿の秘密

鈴木 忠平
エンタメ 社会 スポーツ

 中日ドラゴンズを日本一に導いた落合博満監督の実像に迫るノンフィクション「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(小社刊)が評判を呼んでいる。クライマックスとして描かれる2007年日本シリーズの「完全試合リレー」。その当事者である山井大介投手(43)が現役引退を表明した。番記者だった鈴木忠平氏は、山井という投手をどう見ていたのか。

 山井が引退するとの一報に触れてまず浮かんだのは、彼が20年もユニホームを着たことへの驚きだった。プロ野球の世界は10年やれば成功、20年で大成功と言われる。一瞬の輝きを残す者より、長く土俵にいた者が勝者とされる。

 

 私は正直、山井は短命の選手だと思っていた。2000年代前半、私がまだスポーツ新聞の番記者になったばかりの頃、山井は若手投手の一人だった。投げるボールの威力は誰もが認めていたが、浮き沈みが激しかった。いつも、これからというときに怪我をした。投手としての彼には常に不安定な危うさが漂っていた。

 時の監督、落合博満はよくこんなことを言っていた。

「たまにベンチが想像する以上のことをやる選手がいるだろう? そういう選手はじつは使いにくいんだ。期待した以上のこともやるけど、とんでもないポカもする。そういう奴はこの世界で長生きはできない」

 山井はまさに、“たまにとんでもないことをする”投手だった。その最たる例が2007年の日本シリーズだ。日本一へ王手をかけた第5戦、ローテーションの谷間を埋める形で先発すると、8回まで1人のランナーも出さない快投を見せた。しかし9回を迎える直前、コーチに問われ、自ら交代を申し出た。

 世間には落合の非情采配として知られる場面だが、そのやり取りを耳にして、「プロでやるには人が良すぎる」とも感じていた。

日本一決定後、落合監督と握手

 あれは3年前の秋のことだった。雑誌「Number」の、あの継投を題材にした取材で、久しぶりに山井と向き合う機会があった。最終回直前のベンチで何があったのか。山井は語った。

「8回を投げ終わったところで、森(繁和バッテリーチーフコーチ)さんが僕のところにきたんです。どうだ? と聞かれて、『大丈夫です。いきます』と言いました。僕も欲が出ましたし、やっぱり投げたかった」

 山井はそう言うと笑った。

「でも、勝てば日本一、1点差の最終回、そういうマウンドだと考えた時、自分の頭には岩瀬(仁紀)さんが投げているイメージしか浮かばなかった。だから、多少迷いましたけど……戻っていく森さんを呼び止めて『交代、お願いします』と言ったんです」

 番記者だった当時は知らなかったことだった。

「9回が始まる前に、お客さんが自分の名前をコールしている声がロッカーまで聞こえてきた。ぞくぞくしました。でも自分はロッカーにいて、もう投げない……。涙が出るというか、そんな気持ちでした」

 私は山井の言葉を聞いて、なぜか嬉しくなった。

 単に「代わります」と言ったのなら、お人好しだ。だが山井は葛藤の末にチーム最高の投手にマウンドを託した。あの刹那に、個と組織の最適解を見つけ出した。痛みとともに――。

 チーム内では年下の選手から「うるさい人」と陰口を叩かれることもあった。挨拶に始まり、靴の揃え方から練習方法まで、生活指導教員のごとく口喧(やかま)しかったからだという。他者が脱落すれば、自分が生き残る。限られた椅子を奪い合うプロの世界で、山井は稀有な人間だった。おそらく、そういう性分なのだ。

 時とともに後悔は膨らんでいないか? 問うた私に、山井はこう言った。

「プロになったからには日本一になりたかった。そのために全員が良い決断をした。野球ってそういうものだと思って小さい頃からやってきましたから。あの決断について何度も訊かれましたが、何度訊かれても答えは変わらない。こればっかりは、変わらないです」

 あの試合の後、落合は賛否の渦中にいたが、采配について言及するより先に、「きょうの山井は完璧だった」と言った。

 

 20年間で稼いだ白星は62。決して突出した数字ではない。他の投手なら、もっと早くクビを切られていたかもしれない。だが球団は山井を求めた。野球というチームスポーツが、お人好しと傲慢の狭間に生きた好漢を必要とした。

 そう考えれば、短命の要素をいくつも抱えていた山井が、これほど長くユニホームを着ることができた理由は、あの日、あの瞬間の決断に象徴されているのかもしれない。

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source : 週刊文春 2021年10月21日号

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