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筋書きのない漫才コンテスト

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第5回——衰退した漫才再興のため“生死”を賭けた格闘技的番組が動き出した。

中村 計
エンタメ 芸能 テレビ・ラジオ

「賞金をな、1000万にするんや」

 芸人であり、かつ天才プロデューサーでもあった島田紳助の口から、その案が漏れたとき、日本最大の漫才コンテスト、「M-1」プロジェクトのエンジンに火が入った。

写真 時事通信社

 2001年春、吉本興業の社員だった谷良一は、極めて困難なミッションを背負わされていた。

 漫才をなんとかせよ――。

 たった2人の新部署「MANZAIプロジェクト」に異動となった谷は、そこのリーダーだった。

 昭和8年、吉本興業は平安時代にルーツを持つ音曲芸能「万歳」に「漫才」という字を当て、伝統文化の換骨奪胎をはかった。衣装を和服から洋服に変え、鼓などの楽器に頼らず、「しゃべくり」だけで客を楽しませる。必要なのは、マイク一本のみ。その手軽さも相まって、以来、寄席(365日営業の大衆演芸の劇場)を柱とする吉本にとって、漫才は「主力商品」となった。

 漫才は、ほんの一瞬だけ、エンターテインメント業界のトップにたったことがある。1980年にフジテレビで始まった『THE MANZAI』が火付け役となり、「漫才ブーム」が巻き起こったのだ。そこから生まれたのが、島田紳助・松本竜介の紳助であり、ツービートのビートたけしらだ。しかし、82年に同番組が終了すると、漫才は一気に下火となる。90年代に入ると、漫才番組は本場・関西ですら数えるほどになり、関東ではほぼ絶滅状態だった。必然、劇場への客足も鈍り始める。

 漫才の質も低下していた。ダウンタウンを輩出した伝説の劇場「心斎橋筋2丁目劇場」では、二日酔い状態で、だらだらと雑談をするだけで去っていくような若手さえいた。業を煮やした当時の支配人は1997年、「漫才禁止令」という大ナタを振るった。ただ、一種のカンフル剤だったとはいえ、漫才を根絶やしにしかねないほどの劇薬でもあった。

 漫才の衰退は、吉本にとって死活問題だった。そこで漫才の再建を託されたのが谷だった。漫才愛の強さでは人後に落ちない自信はあったが、気持ちで何とかするには現実はあまりにも厳しく、すぐに行き詰った。

「劇場で漫才イベントを打って、ローカル放送で漫才番組をやってもらってと、できるところから手をつけました。けど、微々たるもの。こんなんでは、いつまでたってもブームは起こせないなと思っていました」

 そんなある日、読売テレビに足を運び、かつて担当していたタレントの間寛平の楽屋を訪ねた。どこかで話し相手を欲していた。ひとしきり話をし、部屋を出たとき、隣の楽屋の「島田紳助様」という貼り紙が目に入った。せっかくだから、紳助にも話を聞いてもらおうと部屋の扉をノックした。現状を報告するなり、意外な反応が返ってきた。

「『ええやん!』って、すごい喜んでくれて。『やってや』と。というのも、紳助さんは漫才に対して、すごく負い目を感じていたんです。だから『漫才に恩返しをしたいんや』と。同志を得たようで、僕も、すごい嬉しくなってしまって」

 紳助・竜介は漫才ブームの立役者だった。だが、それから間もない1985年、デビューから8年足らずで解散してしまう。その後、紳助は漫才で獲得した知名度を生かし、名MCとして大成功を収めていた。それだけに、漫才を踏み台にした、という苦い思いを抱き続けていたのだ。

 収録時間が迫っていたため、谷と紳助は30分ほどしか話せなかった。数日後、谷が改めて会いに行くと、紳助はさっそく腹案を携えていた。それが賞金1000万円の漫才コンテストを開催するというものだった。

「めちゃくちゃびっくりしましたね。コンテストをやるって言ったときは、普通やなと思ったんですけど、賞金を聞いて、それはおもしろい、と」

 今や、お笑いのコンテストにおける「優勝賞金1000万」は、むしろスタンダードだ。だが当時、新人賞における優勝賞金は50万円くらいが相場だった。その20倍である。今だったら、2億円と言われるくらいの衝撃だったことだろう。

 そのとき、紳助の中で、大会の骨子はほぼ出来上がっていた。谷が振り返る。

「M-1という大会名も決まっていました。K-1からパクったんです」

 K-1とは、キックボクシングを中心とした立ち技系格闘技イベントの名称である。そこに漫才の「M」をかぶせた。折しも世の中はK-1ブームの真っ只中だった。安直と言えば安直だが、慧眼だったのは、名前を似せただけでなく、演出もならったことだった。

 第1回大会の決勝を前にした会見で、大会委員長を任された紳助は口角泡を飛ばし、「単なる漫才番組ではないです。命をかけた、格闘技」とぶった。

 紳助は誇張したのではない。本質を暴いたのだ。笑い飯や千鳥の取材をしていて、つくづく思った。あの時代、彼らの世界で「誰がいちばんおもろいか」を競うことは、「誰がいちばんケンカが強いか」を競うのとノリがそっくりだった。

 男の本性が、本能が、むき出しになる。かつて、彼らと行動をともにし、現在はテレビの制作会社で働く元芸人の本谷有希は振り返る。

「大悟さんは、めちゃくちゃ怖かった。常に『お前はどんだけおもろいんじゃ』という感じだったので」

 04年9月刊行の『クイック・ジャパン』誌上で、大悟は、こんなことを語っている。

〈よう4人(千鳥と笑い飯)で、芸人のオデコに“おもろい度数値”が出て、低い数値のおもろない芸人は殺せたらエエのにとか言ってましたからね(笑)〉

 おもろない芸人は、彼らの中では、生きる価値すらなかった。

譲れない全国ネット・ゴールデン

 笑い飯と麒麟の川島明が出会った緊迫のシーンは、仲間内では、今も語り草になっている。インディーズライブでくすぶっていた笑い飯とは違い、そのとき麒麟は吉本の若手の中ではすでに頭角を現していた。芸人仲間の梶剛が思い出す。

「ライブが終わって、哲夫さんとミナミの商店街を歩いていたら、たまたま、向こうから川島さんと、僕らと一緒にインディーズに出ていた仲間が歩いてきて。共通の知り合いがおったんで、そいつが、互いを紹介したんです。そうしたら、哲夫さん、川島さんのことを睨んで、めっちゃ威圧してて。ケンカが始まるかと思いましたね」

 いちばんおもろい者がそのグループを統治し、おもろないという烙印を押された者は行き場を失う。生きるか死ぬか。まさに「オス」どもの世界だった。

 M-1のコンセプトは、そんな空気感を見事に捉えた。今やM-1は本家のK-1を上回る人気と知名度を得た。それは漫才の世界が、格闘技以上に格闘技的な性質を内包していたからに他ならない。

 紳助は審査方法についても明確なイメージを持っていた。ひと言で表現すれば「ガチンコ勝負」だ。紳助には、自分が若手漫才師だった頃、コンテストの審査結果に納得がいかず、何度となく、怒りに打ち震えた経験があった。谷が代弁する。

「その頃の審査員というと、実際、漫才をやったことのない人が多かったんですよ。作曲家とか、大学の教授とか。いわゆる文化人。ネタが終わると、いったん別室に下がって、しばらくしてから結果が出る。どういう過程を経たかも、まったく見えない。力のある構成作家がおったら、こいつで決まり、みたいなこともあった。人気があるとか、事務所が推してるとかいう理由でね。そうじゃなくて、もっとちゃんとした人に、その日の漫才の出来のみで、その場で点数を出してもらおうと」

 賞金も規格外だが、「やらせ」と言われても仕方ない過剰な演出が当たり前になっていた世界で、筋書きのない漫才コンテストを開催するというのは、それ以上に型破りなことだった。紳助も、谷も、大会に命を吹き込むためには、賞金の多寡よりも、こちらの方がはるかに重要なことだと思っていた。

 譲れない条件は、他にもあった。「全国ネット」であり、「ゴールデン」であるということだ。

 谷は自分たちのアイディアに酔っていた。各局とも、この話に大喜びで飛びつくのではないかとすら思っていた。だが、谷がテレビ局回りを始めると、当時のテレビ業界において、M-1プロジェクトがいかに無謀な挑戦だったかを嫌というほど思い知らされることになる。

「あんときの私は、ただのアホでしたね」

 今にしてみると、M-1開催は、関西における芸人の勢力図の一大転換点だった。光を浴びていた者が日陰へ追いやられ、日の当たらぬところでくすぶっていた者がにわかに脚光を浴びた。

 1990年代後半、関西で絶大なる人気を誇っていた若手コンビがいた。2丁拳銃である。ダウンタウンの浜田雅功を彷彿とさせる切れ味抜群のツッコミ・川谷修士と、天才肌のボケ・小堀裕之のコンビは、『吉本超合金』というローカル番組で大ブレイクし、若い女性の圧倒的な支持を得ていた。そして、「もう大阪ではやることがなくなった」と2000年、上京を決めた。

 その2丁拳銃に追われた芸人たちがいる。そのうちの一組が、今や吉本の看板漫才師となった兄弟コンビ、中川家である。誰もが認める実力派だが、その頃の主流だったアイドル路線に馴染まないのは明白だった。

 中川家は当時、2丁目劇場をメインに活動していた。2丁目の舞台に上がれることは、それだけで有望な若手芸人であることの証明になった。ところが、1997年、漫才禁止令が出た1カ月後に2人はそのステイタスを捨てる決断をした。

『日刊SPA!』で、NSC(吉本の芸人養成所)の同期であるユウキロック(元ハリガネロックのボケ)と対談したとき、その理由を兄の剛はこう振り返っている。

〈2丁拳銃を売り出そうとしているのを感じていた。そこで、俺たち中川家がハマらないことは明らかだったもん。俺ら邪魔やろうなと〉

 中川家は、吉本内の争いに敗れたのだった。

 しかし、第1回のM-1でその立場は逆転することになる。そして、2丁拳銃の川谷は、こう悟ることになるのだ。

「キャーキャーで(天下を)獲れる時代は終わった。人気がなくてもいい、イケメンじゃなくてもいい、技があればいいんだと」

 大阪発祥のもう一つの老舗、松竹芸能にも、実力はピカ一だが、社内では傍流に追いやられているコンビがいた。松竹を代表する漫才コンビ、ますだおかだだ。

 ますだおかだの小柄な方、ボケの増田英彦は、漫才ブームにどっぷり浸かって育った。そしてブームが去ったあと、再び漫才に輝きを取り戻してくれたコンビに夢中になった。それがダウンタウンだった。

「漫才ブームが去ると、もう1、2年で、漫才は古いみたいな感じになった。そんとき、『漫才はやっぱりカッコええやん』って思わせてくれたのが、1984年の『ABC漫才・落語新人コンクール』で優勝したダウンタウンさんだった。生放送で観ていて、まだ中学生やのに、この賞を欲しい、って思ったんですよ」

 1980年に始まったABC漫才・落語新人コンクールは、89年に『ABCお笑い新人グランプリ』に改称され、2012年には『ABCお笑いグランプリ』として生まれ変わった。制作はM-1と同じく朝日放送。関西では、もっとも格式が高いとされる若手の登竜門だ。11年までは毎年成人の日に開催されていて、大阪のお笑い好きにとっては、冬の恒例行事になっていた。

 ダウンタウンが優勝した10年後、ますだおかだは、結成2年目でABCお笑い新人グランプリを制覇している。その優勝は、ただの優勝ではなかった。同コンテスト史上、吉本以外の王者は2組しかいない。その内の一組がますだおかだだったのだ。増田が言う。

「あれから、ずっと、十字架を背負わされてきた。『吉本VS.松竹』の、松竹代表みたいな見られ方をして」

 だがその割には、報われることが少なかった。

 1990年代のバラエティ番組の世界は『ボキャブラ天国』(フジテレビ)が一世を風靡していた。手っ取り早く説明すれば、短いネタの中で、少し気の利いた「ダジャレ」をいかに織り込むかを競い合う番組だった。同番組の影響力は絶大で、ここから爆笑問題、ネプチューンといったスターが誕生している。

 向き不向きは別として、芸人としては、意識せざるを得ない番組だった。ただ、ますだおかだは、同番組への出演ルートを事実上、遮断されていた。増田が証言する。

「今でこそ、松竹といったらますだおかだやみたいに言われることもありますけど、当時、うちの本流は、よゐこさんであったり、TKOさんだったり、オセロさんだった。僕らは松竹の寄席には出ていなかったですし、はぐれもんみたいな存在だったんです。当時、『ヤングタウン』っていうラジオ番組に出演していたんですけど、僕らの出番の曜日と、よゐこさんの出番の曜日が、ある日、逆になった。後から気づいたんですけど、ボキャブラの収録と、よゐこさんの出番が重なっていたんです。会社的には、よゐこさんに行かせたかったということやと思います」

 ただし、隆盛を極めていたとはいえ、『ボキャブラ天国』は純粋なネタ番組ではなかった。増田自身、さほど魅力を感じていたわけではない。増田は冬の時代をひたすら刀を研ぐことに費やしていた。

「ボキャブラによって芸人が新たに発掘された。今度は、そいつらのちゃんとしたネタがみたいという時代が、きっと来るはずやと思ってましたから。そのときに戦えるよう、めちゃめちゃネタをつくって、めちゃめちゃ舞台に立ってましたね」

ますだおかだの増田英彦

「怖い顔をして、野良犬みたい」

 人気がないということにおいては、ある意味、一枚も二枚も上手だった笑い飯や千鳥も、この頃、相変わらず不遇の時を過ごしていた。

 インディーズライブ一辺倒から、吉本の劇場「baseよしもと」へのステップアップをはかった2組だったが、そのオーディションである「プレステージ」は、これまでの舞台とはあまりにも勝手が違い過ぎた。自主ライブにおける笑い飯の持ち時間は30分近くあった。異常に長い。エースコンビならではの特権だった。しかし、プレステージの持ち時間はわずか2分しかなかった。

 最初の挑戦は、まだボケてもいないのに、30秒ほどで失格音が鳴り響いた。その時点で即退場となる。単純に、無駄話が過ぎた。

 2回目の挑戦は、早めにボケを2つ続けたが、いずれも滑り、やはり落とされた。ネタ以前に、2人の怪しげな風貌に、若い女性中心の客席は完全に引いていた。哲夫が苦々しい表情で振り返る。

「うんともすんとも言わずに『デデデデー』みたいな音が鳴った」

 オーディションは月1回しか受けられなかった。策を練る時間は十分過ぎるほどあった。3回目は、趣向をがらりとかえた。

 舞台袖でケンカをしていたら、出番が回ってきたので仕方なくステージへ出ていった、という設定のネタだった。上機嫌に何やら話し続ける哲夫の横で、西田は哲夫の横顔を睨みつつ無言でシャドーボクシングを続ける。笑い飯伝説の一つに「オーディションで2分間、黙って客席を睨み続けていたことがある」というものがある。その少々オーバーな逸話の元になったネタでもあった。初めて最後まで演じ切ることができたが、舞台を去ろうとした瞬間、またしても失格音が鳴った。

 哲夫は「一発で受かったる」と豪語していたものの、そうして、約1年間、じつに11回も連続でオーディションに落ち続けた。千鳥は4回目で最初の関門だけは突破したが、次の段階に進むことができず、その後、しばらくまた落ち続けた。似たり寄ったりだった。

 プレステージにおける合否は、放送作家の林龍雄が1人で決めていた。元芸人でもある林は、オーディション後、希望者に対しては個別に落ちた理由をきちんと説明するようにしていた。いわゆる「ダメ出し」である。

 そのダメ出しを求める芸人たちの列の最後には、決まって、あの2組がいた。林の回想だ。

「なぜか、いつもいちばん後ろなんです。笑い飯と、千鳥は。怖い顔をして。汚い恰好でね。野良犬みたいでしたよ。あの4人がいるのが、もう嫌で、嫌で。うわ、今日もおるわ、って。ただね、彼らは、とにかく人を笑わせたいんですよ。その思いの強さだけは、ひしひしと伝わってきました。そうは言っても、めんどくさかったですけどね」

 中川家も、ますだおかだも、笑い飯も、千鳥も、誰にも相手にされずとも、不格好なまでに漫才に前のめりだった。そんな漫才狂たちの季節は、もうすぐそこまで来ていた。

(文中敬称略、以下次号)

source : 週刊文春 2021年12月9日号

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