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ハリガネロック、そして中川家

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第7回——審査員は第一線を走る芸人と一般客。何に笑い、何を見抜くのか。

中村 計
エンタメ 芸能 テレビ・ラジオ

 気分は、さながら「生贄」だった。元ハリガネロックのボケ役で、現在は、一人で活動するユウキロックが当時の会場の様子を思い起こす。

「実験台にされているような、得体の知れない恐怖感がありましたね」

 記念すべき最初のM-1決勝は、若手芸人にとっては、何もかもが初めてのことばかりだった。収録現場の東京・砧(きぬた)のレモンスタジオには、オンエアのおよそ5時間前に招集がかかった。通常の番組では考えられない念の入れようだった。入り口にはレッドカーペットが敷かれ、ロビーには1万円札を1000枚並べた透明の巨大なアクリルボードが掲げられている。優勝賞金を視覚化しようという番組サイドの演出だった。

 楽屋で待機していると、そこへ審査員を務める島田紳助や松本人志ら生きる「伝説」たちが激励に訪れた。怒濤のごとく押し寄せる「非日常」に、芸人たちの平常心は少しずつ蝕まれていく。優勝候補と目されていた中川家の兄、剛は手を震わせながらタバコをくゆらし、空えずきを繰り返していた。

 ユウキロックも、時間とともにこれから立つことになる舞台のスケールに圧倒されかけていた。

「大会というより、全国のゴールデンでネタをやるということの重責ですよね。そんなこと、20年近くなかったわけでしょう? ここで俺らがコケたら、もう、この番組の道は閉ざされてしまう。だから重苦しい雰囲気でしたよ。会話があるわけでもなく。今とは全然違いましたね」

 第1回大会が開催された平成13年(2001年)の世において、漫才はもはや昭和の娯楽だった。そんな古色蒼然とした演芸である上に、決勝に残った10組は全国的には無名の新人漫才師たちばかりである。勝算など、あるはずもない。

 大きな机を簡易的な椅子が囲んでいるだけの楽屋は、芸人たちが引っ切り無しに吸うタバコの煙でむせかえっていた。

 M-1の応募資格には「コンビ結成10年以内」とあった。現在は「15年以内」に延長されたが、発足当初は今以上に新人賞の意味合いが強かった。そのため、優勝賞金が高額とはいえ、中堅と呼ばれる域に差し掛かりつつある芸人にとっては参戦意義を見出しにくい大会でもあった。

 初代プロデューサーの谷良一は、レベルを維持するためにも、そんな芸人たちを必死に口説いて回った。結成10年目、つまり、いきなり最初で最後の機会となった中川家も出場には後ろ向きだった。谷が思い出す。

「彼らは嫌々でしたね。会社に言われたから出るだけや、と。予選は制限時間3分のところを、平気でオーバーしてましたから。ルールもわかっていなかった。決勝になって、初めて本気になったんちゃうかな」

 大阪NSC(吉本の芸人養成所)で、中川家の同期だったユウキロックもピンときていなかった。

「会社の方針なら、出なきゃいかんのかな、と。小生意気やったんで、自分らが出なかったら始まらんやろ、ぐらいの気持ちでしたね」

 ハリガネロックは、新人賞としてもっとも権威があるABCお笑い新人グランプリを始め、すでにいくつものタイトルを手にしていた。今さら……。そんな思いが過(よぎ)ったとしても無理からぬことだった。

ハリガネロック(左・ユウキロック、右・大上邦博/写真 産経新聞)

 ところが、決勝進出を決めた後、そんなユウキロックの闘争本能に火を付ける出来事があった。

「優勝候補は中川家というのはわかっていたんです。ただ、おれらも、その次くらいに名前が上がると思っていた。そうしたら、会う人、会う人に『番狂わせ起こしたれ』みたいな言い方をされて。えっ? って。燃えましたね。見とけよ、と。今にして思うと自分が見えていなかった。でも、自分に酔ってないとやってられないような時代やったんですよ」

 時代のせいばかりでもなかった。ユウキロックが自己陶酔し続けなければならなかった理由。それは、かつての相方への意地でもあった。

「アホなもんに人生かけんな」

 一夜ですべてが変わるM-1は、芸人を狂わせ、盲目的な行動に走らせる。そんな者たちへの痛烈なアンチテーゼだった。

「こんなアホなもんに人生かけんな、って言いたいですよ」

「ケンコバ」こと、ピン芸人のケンドーコバヤシは、そう野太い声を響かせた。分厚い肉体と、厳しい風貌。芸人というよりは、格闘家のような威圧感を漂わせている。

ケンドーコバヤシ

 M-1予選は毎年、夏にスタートする。1、2回戦でまずはほとんどのアマチュアと芸歴の浅い芸人がふるい落とされ、晩秋に開催される3回戦からが本番といっていい。M-1が始まってからというもの、秋は別れの季節にもなった。この時期になると、芸人界隈では決まってコンビ解散のニュースが駆け巡る。M-1の敗戦が契機となるのだ。

 残酷だが、それは大会を企画した紳助の裏の心算でもあった。10年芸人を続けても3回戦に進めないようなら、早々に見切りを付けた方が本人にとっては幸せである。それが紳助の一貫した考えだった。

 ただ、どうであれ、M-1はあくまで「通過点」だ。ところが、今や目的そのものになりつつある。漫才のメジャー化と競技化に拍車がかかり、本質から遠ざかっていってしまっている面も否めない。ケンドーコバヤシも、そこに苛立っていた。

「漫才愛を語るヤツが増えた。おれ、法律がなかったら、そんなやつ、その場で顎カチ割ったろうと思いますもん。カッコ悪いことすんな、と」

 ケンドーコバヤシは「論」をぶつ人間を極端に嫌悪した。その矛先は、私にも向けられた。

「中村さんのやっている行為が、一番寒いと思いますよ」

 突然の口撃に対し、反射的に笑って誤魔化そうとしたのだが、マスクの下で頬が引きつった。「私は芸人じゃないので……」と釈明したが、許してくれなかった。

「笑いの解説とか解析とか。そんなん、教える必要あります?」

 私の仕事内容をある程度、把握しているようだった。ケンドーコバヤシは私をたしなめるように言った。

「今でこそM-1は大そうなものとして語られていますけど、最初は、そんな感じじゃなかった。人生変わるって、目の色変えているやつもいなかった。ハリガネロックくらいでしょ。目の色、変えてたの。そうなっちゃったら、こういう風になるという見本みたいなもんですよ」

 ハリガネロックというよりは、ユウキロックと言いたかったのだろう。そう、ケンドーコバヤシこそが、ユウキロックのかつての相方だった。

 それだけに、その言葉には、真実と、多少の怨恨が入り混じっているように思われた。

 ユウキロックとケンドーコバヤシは、1992年に松口VS小林というコンビを結成。ともにプロレス好きで、プロレスをテーマにした破茶滅茶なコントで評判を呼んだ。同期の中では中川家と並ぶ期待の星だった。

 ところが、ケンドーコバヤシが先に売れ始めたことで、ユウキロックは自分は生涯、相方の引き立て役で終わるのではないかと危惧し、解散を切り出す。ケンドーコバヤシは抵抗したが、最後は、ユウキロックが半ば強引に袂を分かった。結成からわずか3年、95年のことだった。

 ケンドーコバヤシの中では、そのときの痼(しこ)りがまだ完全には消えていないように見えた。ユウキロックは、今だからこそ、こう振り返る。

「嫉妬していたんでしょうね」

 それから間もなく、芸人仲間の中でももっとも気心が知れた大上邦博とハリガネロックを組む。才能豊かな相方を裏切ったことで、ユウキロックは重い十字架を背負わなければならなかった。そこまでして新たなコンビを組み直した以上、売れないわけにはいかない――。

「好きなやり方じゃないけど、ウケたいからやる。なので、ウケてても恥ずかしかった。ウケなくてもいいから、自分が信じるものもやった方がよかったのかな。そこのバランスがうまく取れなかった。社内戦争に巻き込まれ、絶対、ウケなければならないというのもあった。そういう運命やったんかな……」

 芸能界は、実力以上に、プロデュースする側の力がものをいう世界だ。吉本の芸人たちも、その仕組みから完全に逃れることはできない。

「似ていないモノマネ」で芸人として確固たる地位を築いたハリウッドザコシショウが、そのあたりの事情を説明してくれたことがある。現在、ザコシショウはソニー・ミュージックアーティスツに所属しているが、大阪NSC出身で、ケンドーコバヤシらとは同期だ。その昔、吉本の劇場に立ったことがある。

「吉本の場合、劇場の支配人が代わると、ニュースターを発掘したいので売れ線も変わるんですよ。そして、また新しい支配人がやってくると、今度は違う芸人を推し始める。吉本は内で評価されなかったら、あとは外で評価されるしかない。ケンコバは内ではさっぱりでしたけど、あそこまで上り詰めた。珍しいケースだと思いますよ」

 そういうザコシショウもまた苦労を重ねた「自力派」だった。もちろん、吉本内で評価されたからといって必ずしもスターになれるわけではないが、そのアドバンテージは計り知れない。

 ケンドーコバヤシには独力で芸人としての道を切り開いてきたという自負がある。だからこそ所属先に対して、こんな嫌味の一つも言いたくなる。

「プッシュされる芸人は数年に数組。なのに吉本は潰れそうな芸人ばっかりプッシュする。常々、アホやなって思ってますけど」

 ハリガネロックは出世ルートの当落線上にいた。そこにしがみつくためにも結果を出し続けるしかなかった。ハリガネロックは、M-1開催の2年前から始まったNHKのネタ番組『爆笑オンエアバトル』の常連だった。同番組は100パーセント、客が審査を担当した。ユウキロックは、こう悔いる。

「オンバトに出てたせいなんかな、客ウケを意識し過ぎて、簡単にウケそうなことばかりを並べていた。3本のネタの、おもしろい部分だけをつなげたりしていたんで。つなぎ方には自信あったんですけど、プロが見たらわかりますよね。あと、芸能人をいじって笑いを取ったりしていた。あれって笑いが取りやすいぶん、笑いの質が、薄く、軽くなるんです。そういうの、プロの審査員は嫌うんですよね」

 仲間内で、松口VS小林ほど解散を惜しまれたコンビはそうはいない。未だによく聞く。二人が解散していなかったら、どこまで行けたか。だが遅かれ早かれ、違う道を歩む運命にあった気もする。二人の笑いのスタンスは正反対だった。ケンドーコバヤシは憮然とした表情で言った。

「お客さんの方ばっかり向いてやってるやつって、何がしたいねん、って思いますもんね。要は自分の方を向くか、客の方を向くかだと思うんですよ。おれは圧倒的に自分の方を向いていたい。ウケることよりも、自分がおもしろいと思うことをやっていたい。どちらが間違っているかで言えば、おれなんですけどね」

 ハリガネロックは10組中10番目、最後に登場することになった。ユウキロックの回想だ。

「嫌でしたね。緊張がそこまでずっと続くじゃないですか。ただ、実際始まってみると、ダメだった人がどんどん戻ってくる。それを見ていたら気が楽になってきました。あかんくても同志がおるわ、と。こいつらと一緒になるだけやから、と。そう思ったら、思い切りいけました」

 そこまでの1位は、トップバッターで計「829点」を叩き出した優勝候補の筆頭、中川家だった。コンテストにおいて1番目はまだ会場の空気が暖まっておらず、圧倒的に不利と言われる。その中でこの順位はさすがのひと言に尽きた。

中川家

 実績と実力では中川家と双璧と言っていい8番手のますだおかだは、「770点」だった。まずまずの高得点だったが、その時点で、2位に付けていた事務所の後輩であるアメリカザリガニの得点を上回ることができず、3位にとどまった。

 上方の「しゃべくり漫才」を音楽のジャンルで表現するならば、ロックだ。ロックの源泉は体制への怒りである。ハリガネロックは、名前からして、まさにそんな西の漫才を象徴するようなしゃべくり漫才のコンビだった。ユウキロックは髪を逆立て、サングラスをかけ、黒い革のジャケットをまとい登場した。

 口調は反逆者そのもの。そして、昨今の世間への不平不満を、ロックの調べに乗せてシャウトし、「センキュー」と決め台詞を吐いて去っていった。怒濤の、そして圧巻の4分だった。ハリガネロックは、低評価に対する怒りをそのまま言葉に乗せ、漫才を歌い上げた。

「過去最高の漫才ができたんちゃうかな、というくらいうまくできた。下馬評を覆してやるという熱量がものすごかったんで」

 合計得点は、中川家に次ぐ「809点」だった。

 ただ、この順位に関しては、留意しなければならない点があった。第1回大会に限り、7人の審査員の他に、一般審査員がいた。札幌、大阪、福岡にある吉本の各劇場に集められた計300人の素人も、それぞれ「1点」を持っていたのだ。この300点の配分が順位に大きく影響した。

 プロの審査員の合計点だけで言えば、順位は中川家、ますだおかだ、アメリカザリガニ、ハリガネロックの順だった。しかし、ますだおかだとアメリカザリガニは一般審査の、特に大阪会場の票が伸びず、逆転を許した。大阪は長く吉本と松竹がその覇権を争ってきた地でもある。しかも、一般審査には吉本の会場が使われた。そのため、一部では、両コンビがライバル社の松竹所属だったことが、大阪の審査においては不利に働いたのではないかと囁かれた。

 無論、真実は定かではない。だが、これだけは確かだった。ハリガネロックは、やはり客審査に強かった。一般審査で10組中最多となる「242点」を獲得し、2位に躍り出た。

 上位2組は最終決戦に進むことになった。最終決戦では、互いに2本目のネタを披露。最後は、7人の審査員による投票で雌雄を決する。しかし、ハリガネロックの「反逆」はここまでだった。ユウキロックが寂しげに言った。

「ぶっちゃけ、あそこで満足してしまった。相方にも言ってましたもん。『ここまで来れてよかった』って。リラックスした方が持ち味が出るコンビもいますけど、僕らのスタイルは満足したらダメになる」

 怒りを忘れたハリガネロックはハリガネロックではない。

 最終決戦は、予想外の大差となった。中川家が6票で、ハリガネロックはわずか1票だった。

 参戦当初は気持ちの作り方に苦労していた中川家だったが、優勝が決まった直後、弟の礼二は体を弛緩させながら涙を流した。ユウキロックがそのときの心境をこう慮る。

「中川家はただ、ホッとしたんだと思います。それがあの涙だった。僕らは優勝したら、『やったー!』ってなってたと思うんです。置かれている状況が違った。中川家は優勝して当たり前。挑戦者である僕らは、その王者を殺すぐらいの気持ちでいかなければいけなかった。そう思えなかった時点で負けていましたね」

「漫才が変わっていくな――」

 第1回大会は視聴率的には惨敗だった。関西こそ21.6%と健闘したが、関東は9.0%。全国ネットのゴールデン帯の番組であることを考えると打ち切りとなっても不思議ではなかった。しかし、関係者の強い意向でM-1は継続された。

 翌年の第2回大会は、ユウキロックは打って変わって「めっちゃ気合い入れて」臨んだ。そして2年連続で決勝進出を決めるも、依然として、自己評価と周囲の評価のギャップに苦しめられた。

「前年、2位になったのに優勝候補とは言われなかった。中川家がいなくなり、今度は、ますだおかだが本命だと。今なら、その理由がわかるんですけどね」

 2年目の挑戦は、トップバッターだった。ユウキロックが「まったくハマらなかった」と振り返ったように得点は低調だった。そして、続くますだおかだの得点に愕然とする。

「そんな点出んやろうって、高をくくってたんです。そうしたら、めっちゃ点が高くて。焦りましたね。さらにフットボールアワーの得点を見て頭が真っ白になりました」

 ますだおかだの得点は、ハリガネロックを67点も上回っていた。6番手のフットボールアワーの得点はさらにその上をいった。

 衝撃はそれだけでは終わらなかった。フットボールアワーの後に登場したあるコンビのネタを見て、こう確信することになる。

「これは……、漫才が変わっていくな、と思いましたね」

 2002年、M-1が、いよいよその本性を見せ始めた。

(文中敬称略、以下次号)
 

source : 週刊文春 2021年12月23日号

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