週刊文春 電子版

たった一人のライバル 4

短期集中連載 ジュリーがいた

島﨑 今日子
エンタメ 芸能

「オレがあいつの良さを認めることができること自体、それだけで嬉しいんだ」。二人が出会い、共に闘った日々。

 カメラが斜め後方からとらえた全裸のジュリーがヨットから海に飛び込み、きれいなクロールで泳いでいく――1974年7月28日日曜日、日本テレビで放送された「青春★沢田研二 真夏のロックンロール at 日比谷野外音楽堂」の冒頭シーンである。沢田初のドキュメンタリー番組は、ジュリーがインディアン風の衣裳でシャウトした、全国縦断コンサート初日のライブ映像を中心とした90分の番組。撮ったのは、沢田と同じ48年生まれの映像作家、佐藤輝であった。

 石岡瑛子より5年早く時のスーパースターを裸にした佐藤は鬼才と呼ばれ、その前衛的な演出方法でジュリーや矢沢永吉、尾崎豊ら数多くのミュージシャンの映像作品を手がけて、内田裕也がスーツを着てハドソン川を泳いだ85年パルコのCMの撮影者でもある。91年、沢田研二デビュー25周年の武道館ライブ「ジュリーマニア」を撮った時は、30曲を歌ってステージを駆けるシンガーを13台のカメラで追いかけ、楽屋でメイクするスターを撮ってDVDのオープニングに置いた。

「化粧する姿なんか撮られるのは嫌だろうに、僕が『撮っていいかな?』と聞くとやってくれるんですね。彼はひとりで編集室にやってきて、僕が編集するのを長椅子に座って見てるんですよ。はじめて沢田研二を撮った時は、ジュリーがまだやっていないのは何だろう、どうしたら番組として惹きつけられるだろうかと考えて、思いついたのが裸でした。まだ沢田と話したこともなかった頃でしたが」

 佐藤は、70年に発足した日本初の独立系番組制作会社テレビマンユニオンに、最年少の21歳で参加。だが、その独創的な作風はしばしば幹部と摩擦を起こし、74年には独立してテル・ディレクターズ・ファミリィを作ることになる。この時、元タイガースのマネージャー、中井國二も会長職にあったキャロルの事務所バウハウスを辞して佐藤と行動を共にした。事務所名を考えたのも、名刺のロゴをデザインしたのも中井だった。

「中井さんとは、キャロルを撮った時に仲よくなったんですよ」

 沢田研二の番組は、佐藤が美空ひばりのドキュメンタリーと共にテレビマンユニオン時代に公募で勝ち取った企画であった。「この人を落とせば大丈夫」と中井から教えられ、渡辺プロダクションの制作次長、池田道彦に直接当たって、了解を得た。

 時のトップスターを裸にすることについては、誰の許可も求めなかった。撮影当日、湘南沖のヨットの上で閃き、「素っ裸で海に飛び込んでくれない?」と直接、沢田に交渉したのだ。「角度で見えないようにするから。しばらく泳いだらカットと言うからそこまで泳いでね」の注文に、彼は「いいですよ」とあっさりうなずいた。野外ライブのためか野球のためか、海に飛び込むジュリーの足首にくっきりと日焼けの跡が残っている。

 94年、NHK衛星第二で佐藤の仕事を俯瞰した「もうひとつのヒーロー伝説~映像作家・佐藤輝の世界 美空ひばりから尾崎豊まで」が5夜連続で放送された。第3夜は沢田研二を中心とした回で、「青春★沢田研二~」や、桜吹雪が舞い散る中で仰臥するジュリーの幻惑的な姿が流れ、沢田自身もインタビューに応じている。そこで彼は、佐藤への信頼を語っていた。

〈だいたいが突飛なことをやらされる質(たち)なんですよ。で、その時に断らない。渡辺プロという大きなプロダクションにいたので、構造としては大事にされるんだけど、やっぱりイメージを壊したいというか、僕の方も渡りに船というところがあるわけですよ。保守的にならずにすむ。だから、外の人が「こういうことをやったらいい」と言ってくれることが、僕は面白かったし、好きだったし〉

「青春★沢田研二~」は全国のジュリー・ファンを狂喜乱舞させ、佐藤の事務所に母親同伴で女の子が礼を言いにやってきたほどであった。番組はスイカがタイトルに出てきてポップに弾け、ライブシーンは躍動感にあふれて、超弩級のカッコよさでジュリーが迫ってくる。今ではあたり前になったライブシーンのバックショットからの撮影を許したのは、この時の沢田研二がはじめてだった。貴重なインタビュー映像も差し込まれ、「幸せか」と聞かれると、26歳のジュリーは絶頂にいるスターの恍惚と不安を隠さなかった。

〈確かに幸せやけど、ブランコに乗ってるみたいな感じでね。ブランコの鎖は両手でしっかり持ってんと、あれは落ちそうになるからねえ。曲芸師やないから、手を離すとごちょ~んと落ちそうやし、後ろからドーンと突かれたりなんかすると一発で落ちてしまうみたいなね。そういう感じがしますね〉

 このドキュメンタリーは再放送されたものの、今では見ることが叶わない伝説の番組となった。他にも、その当時でさえ超レアな映像があったからだ。街を歩くジュリーとショーケンのツーショットである。ジュリーは「危険なふたり」でトップシンガーの座を手にして「追憶」を歌い、「太陽にほえろ!」で若手俳優ナンバー1となったショーケンは、いよいよ「傷だらけの天使」が始まろうという時期。

「危険なふたり」レコードジャケット

 佐藤が、ジュリーのドキュメンタリーにショーケンを出そうと考えたのはいたってシンプルな理由だった。

「僕はライブ映像だけ撮っておけばいいというのは、嫌なんですよ。で、ジュリーと誰かを一緒に撮りたいとなったら、ショーケンしかいないじゃない。あの時のショーケンは、出る作品とか自分の出方って、もの凄く慎重にやってた時代だし、一筋縄ではいかないとわかっていたので、池田さんたちを総動員して、口説きました。ようやく彼がやってもいいかとなった時、担当のディレクターと会いたいと言われ、僕は沢田とは会っていないのに、ショーケンと喫茶店で話したんですよ。地下鉄で待ち合わせて、ゴールデン街で飲んで欲しい。それだけの企画なんだけれど、特に内容については言われもしなかった。あの人は全然飾らないざっくばらんな人で、ただどんな男か見てやろう、こいつに任せてもいいかということだったんだと思う」

ドアが開かないほどファンが

 いざ撮影という時、佐藤は二人に「移動する間は喋ってもいいし喋らなくてもいいから、好きにやってくれ」と告げて、何の演出もしなかった。

「全編アドリブです。僕は、花を飾ったテーブルをはさんでスターを対談させるなんていう番組に一矢報いたいという気持ちがありましたからね。話すのはどこだってできるじゃない。美空ひばりさんの時は岡林(信康)と一緒にちょっと歌ってもらったりして、矢沢の時はユーミンと茅ヶ崎の海岸で立ち話してもらった。ジュリーとショーケンが地下鉄に乗ってゴールデン街で飲むって、それだけで素敵じゃない?」

 当時は、小さなハンディカメラはなく、カメラとVTRの一体型もなかった。佐藤は、スタジオの大きなVTRを「一切傷つけない」と頼み込んで局から借り出し、4人がかりで地下鉄から新宿ゴールデン街までを撮影した。

「あの当時あの映像が新鮮に映ったのは、そういうこともあったんですね。テープはオープンリールだからちょっとでも斜めになると止まってしまうし、大変でした」

 並んで歩いている二人の後ろに沢田のマネージャーがいて、ファンの姿も映っている。極秘で進めていたはずなのにファンにはバレていた。

「僕は、事前にゴールデン街の関係者に一升瓶2本を持って挨拶にも行きました。すべて計算してやっていたのにたったひとつ計算外だったのは、ドアが開かないくらいにあの小さな店の前に何百人ものファンが押し寄せたこと。沢田とショーケンにマネージャー、スタッフも含めて8人か9人が閉じ込められた状態になり、結局、誰が誰だかわからないようにバーッと逃げようと決めて一斉に逃げたんですよ。翌日が海での撮影でした」

 こうして撮られた映像は、現在、編集されたものがYouTubeに流れている。番組ではいくつかのパートに分かれていたが、全編を説明するとこんな具合だ。

 白とピンクのストライプのブラウス、ジーンズ姿の沢田研二と、チャコールグレイのパンツに胸を大きくはだけた白いシャツ姿の萩原が赤坂見附で丸ノ内線に乗る。車中、二人並んで座席に腰掛けて、手持ち無沙汰で煙草をくわえる沢田に、大股開きであくびをする萩原。新宿3丁目で降りて、地下鉄のホームから改札へと上がっていく。深夜零時。「煙草ないの?」と萩原が聞いて、「あるよ。あげる」とバッグから煙草を出す沢田。「最近吸うようになったの?」と聞く萩原に、「最近、多いのよ」と沢田。二人は煙草を吸いながら仕事の話をして、沢田が「今度野球のチーム作るの。ジュリーズっていうの」と話す。ゴールデン街の遊歩道を歩いて一軒の店に入るなり、「ちょっとオシッコさしてくださーい」とトイレに入った萩原は、「オールドがいいなぁ」とオーダー。沢田が「ロック」と注文すると、「ロックを歌うからロックだってさ」と萩原が言い、「ポップス歌うからポップコーン」と沢田が応じる。

 沢田の服装は、7月31日放送の「寺内貫太郎一家」にゲスト出演した時と同じものなので、ドラマ撮影の夜に撮られたのだろう。この時、ジュリー26歳、ショーケン24歳。今なら二次創作が生まれそうな、最高にカッコいい二人の幸福なシーンである。

愛にも似たその友情

 萩原が本格的に俳優へと舵を切って以降、彼の番組に沢田がゲスト出演し、沢田が主演のドラマを撮った時は萩原がゲストとして出るという形が続いていた。沢田がレコーディングのためにロンドンへ発つ時は、PYGのメンバーとして萩原も空港へ。「太陽にほえろ!」で萩原が演じたマカロニ刑事が殉職した時は、アートシアター新宿文化地下の蠍座でファンを集めて「早見淳を悼む夕べ」が開かれ、沢田も井上堯之や岸部修三(現・一徳)らと参加して、「追悼の言葉」を贈った。

 少なくとも73年まで「ヤング」の所属タレントの欄には、PYGの名前があった。沢田と萩原のツーショットは多くの雑誌に載っており、二人一緒の露出は渡辺プロの方針というより、彼らにしてみれば仲間としてのごく自然な行動だったようだ。二人は私的な時間も、井上堯之や萩原の部屋でお酒を飲みながら過ごしている。

 72年8月の10日間、沢田と萩原はテレビの特番のために、夏休みもかねてギリシアへ出かけた。CM撮影もあった沢田はイスタンブールでスーツケースを盗まれ、CM用の衣裳も、地中海の島をめぐる豪華客船のパーティーで着るスーツも、「俺、2着持ってきたから」と言う萩原のスーツを借りることになる。この時のジュリーはベビードールで誂えたものらしきベージュのスリーピース姿で、シャツの衿を出していた。どこかで沢田が、ネクタイをせず、ジャケットの外にシャツの衿を出すスタイルは「ショーケンと僕が始めたもの」と語っていた。あの時代、野口五郎や西城秀樹ら男性歌手がこのスタイルで歌っていたが、二人のファッションが伝播したのだろう。

 73年の早春に放送されたニッポン放送「沢田研二のすばらしい世界」のゲストは、主演映画「股旅」が公開される頃の萩原健一だった。沢田は、「重い腰を上げて、今日は我等のショーケンが来てくれました」と相棒を迎える。暴力をテーマに「唐獅子牡丹」「股旅もの」「学生デモ隊と警察官」というミニドラマを二人で演じながら、トークをする趣向。演じ終わると、ジュリーは「ふっはははは」と笑い、ショーケンも「笑っちゃダメだよ」と言いながら笑ってしまって、まるで高校生である。GS時代の芸能誌には、互いを見つけると声を上げて駆け寄るジュリー&ショーケンとあるので、出会いからこんな調子だったのだ。

 その年の秋に発売された「週刊TVガイド」11月16日号は「ジュリー&ショーケン」特集であった。サブタイトルが「愛にも似たその友情の秘めたる絆とは」。二人を追ったグラビアに、互いを語り合うインタビューページが続き、二人に近い人たちがジュリー&ショーケンの友情について意見を開陳して、計11ページの企画。当代の人気者二人の関係を〈男だけの“美学”〉〈ゆるぎない友愛の姿〉と讃えた。

 二人のインタビューは互いへの愛情と信頼に満ちて、共有してきた時間と目指すものが集約されている。沢田研二は、自分にとってショーケンはどういう存在なのか、客観的に言葉にしていた。

〈現状に甘えず、金もうけに堕さず、納得できる状態になるまでやっていく、とこういう目的意識が、二人に共通しているということだと思います〉〈ショーケンはいつも真剣なんだ〉〈ぼくにはとっても尊いこととうつるんです〉

 萩原健一は、もう少し感情的に沢田への気持ちを語っている。

〈オレがあいつの良さを認めることができること自体、それだけですごく嬉しいんだ〉〈あいつが誰かにやられたら、必ずオレはすっとんで行く。あいつもそうしてくれるよ。オレはあいつを信じているんだ〉

 萩原の言葉は嘘ではなかった。

 同特集のリードには〈今年の「レコード大賞」の最有力候補、沢田研二〉と紹介されていて、ジュリーが「危険なふたり」で歌謡界最高の権威ある賞をその手にするのではないかと予想されていた時期のもの。だが、予想は覆るのだ。雑誌発売日の2日後、11月11日、東京プリンスホテルで部門賞を発表する「速報!日本レコード大賞」がTBSテレビで生中継され、冒頭の「大衆賞」のトップバッターにジュリーの名前が呼ばれたのだ。大晦日に発表される大賞は5人の「歌唱賞」受賞者から選ばれるので、この時点で沢田のレコード大賞はなくなった。

 白い衣裳をつけたジュリーが「危険なふたり」を歌って2コーラス目、ハプニングが起きる。ジーンズのスーツ姿に赤いマフラーを巻いた内田裕也が客席から現れてステージに上り、歌唱中のジュリーに「頑張って」と声をかけ、手を差し出して去っていった。戸惑ったろうにジュリーは握手に応えて、何事もなかったように歌い続けた。

 その場に居合わせたある人は、番組収録が終わった直後、会場横の廊下で「なぜ沢田が大衆賞なんだ!」と関係者に詰め寄る内田裕也軍団の姿を目にしている。そこには萩原健一の姿もあった。目撃した人が言う。

「ちょっとした騒ぎになってました。もちろん、沢田さんは知らないと思いますよ、あの人はそういうことをする人じゃないから。今でも知らないんじゃないですか」

 その数日後、11月20日発表の歌謡大賞は、沢田研二が「危険なふたり」で受賞する。しかし、大晦日のレコード大賞発表は紅白歌合戦と並ぶ国民の年中行事のようなもので、高視聴率を稼ぎ、発表会場から紅白のステージへ駆けつける姿は歌手にとっては文字通り晴れ姿だった。この73年のレコード大賞は、リリースされて間もない五木ひろしの「夜空」が受賞した。

「獲れなかったら帰る」

 内田裕也の行動が間違っているのは言うまでもない。ただ誰よりも人気者だったグループサウンズ(GS)時代から歌謡界の中心で疎外されてきたジュリーが、ようやく真ん中に立てるという期待があったのだろう。納得できない賞レースへの不満と沢田の悔しさを思っての内田の行動で、そこにショーケンも共振したのではないか。

 77年、沢田研二が「勝手にしやがれ」でレコード大賞を獲った時、TBSはサプライズゲストとして祝福してもらおうと、ショーケンを会場の帝国劇場に呼んだ。すでに萩原は渡辺企画を離れ、自主制作したドラマ「祭りばやしが聞こえる」で大きな借金を背負った頃だが、快く応じた。発表までの間、萩原と一緒に控室にいた、沢田のマネージャーだった森本精人の証言。

「『この大晦日の忙しい時に呼び出しやがって』と怒られたけど、来てくれたんですよね。『おい、本当に獲れるんだろうな、獲れなかったら俺は帰るぞ』と言って、モニターを見てました。やっぱり、ショーケンはジュリーを尊敬してましたからね。あの二人は本当に仲よかったんですよ。佐藤輝さんが撮った二人を見た時は、模範生のジュリーが煙草を吸ったりして、アウトローのショーケンに近づこうとして多少無理しているように僕には見えましたが」

 大賞発表後、舞台に上がってマイクを向けられた萩原は「遅いくらいです」とコメント。トロフィーを手に、グログラン地の赤いジャケット姿で「勝手にしやがれ」を歌うジュリーの後ろに、作詞作曲の阿久悠と大野克夫、編曲の船山基紀、加瀬邦彦、岸部一徳とシロー、森本太郎が立っている。井上堯之の横で、黒いスリーピースにグレイのネクタイを締めたショーケンがはにかんで手拍子する。彼は、歌い終わった沢田の胴上げにも参加した。

1977年、第19回日本レコード大賞
ジュリーの左隣にはショーケンが

「週刊TVガイド」の特集にコメントを寄せているのは市川森一、井上堯之、加瀬邦彦、ポリドールレコードのプロデューサー佐々木幸男、中井國二、安井かずみという顔ぶれだった。

 佐々木は、こんな話をしていた。

〈ピッグでもショーケンは一歩しりぞき常にジュリーに花をもたせていた。ジュリーはまたショーケンをよくフォローしていたんですけど、かつて花形だった人間にそう簡単にできる事じゃないですよ〉

 市川と佐々木と中井は、ジュリーとショーケンが単なるライバルで終わらない理由として、同じことを指摘している。GSという戦国時代を生き抜いてきた者同士の無言の畏敬の念、同時代を生きる仲間意識、もっと大きな敵(既成のもの)がいることを知っているのだ、と。背中合わせで闘いながら古い時代を切り裂いていく二人の姿は、周囲から見ても眩しいものだった。

 佐藤輝が、「青春★沢田研二~」にショーケンを呼んだのは、ジュリーのスターらしくない自然な素顔を撮影したいと思ったからである。

 深夜の赤坂見附駅のホーム。新宿方面行きの電車のドアが開く。先に乗ったジュリーが「うん?」と友だちの姿を探して振り返ると、ショーケンが「へっへっへ」とニコニコして飛び込んでくる。二人、顔を見合わせて嬉しそうに笑う。佐藤の演出なき演出が描き出した、スーパースター二人の素敵な姿だ。

(文中敬称略/つづく)

(しまざききょうこ 1954年、京都市生まれ。ノンフィクションライター。著書に『森瑤子の帽子』

『安井かずみがいた時代』『この国で女であるということ』『だからここにいる』などがある。)

source : 週刊文春 2022年1月20日号

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