週刊文春 電子版

警視庁科学捜査官の告白 ルーシー事件「犯行ビデオ」が決め手だった

石井 謙一郎
ニュース 社会
記者会見するルーシーさんの父と妹
記者会見するルーシーさんの父と妹

「ビデオに写った被害者の様子から、使用された薬物を特定できないか、という前例のない下命でした」

 英国航空の客室乗務員だったイギリス人女性ルーシー・ブラックマンさん(当時21)失踪事件は、「外国人女性等に対する薬物使用連続暴行事件」に発展。2000年10月、10人の女性を薬物で眠らせて暴行し、うち2人を死亡させた容疑で、不動産会社役員の織原城二(当時48)が逮捕される。

 織原が所持していた大量の薬物と、犯行を撮影した5000本に及ぶビデオテープの解析は、警視庁捜査1課に所属する科学捜査官・服藤(はらふじ)恵三警部に託された――。

 

(石井謙一郎 フリーライター)

「使用薬物の特定は、代謝物や胃の内容物から分析するのが普通です。しかしこの時点での手がかりは、捜索で差押えた薬物類と、被害者が写る映像しかありませんでした」

文藝春秋 1700円+税
全ての画像を見る(5枚)

 服藤氏は、当時をそう振り返る。科学捜査官は、科学の専門知識と技術を活かして犯罪と向き合う特別捜査官だ。1996年に新設され、警視庁では服藤氏が任命第1号となった。よく知られている科学捜査研究所(科捜研)の研究員は、薬毒物やDNAなどの鑑定が主な仕事。警察官ではないから、テレビドラマのような捜査は行なわない。

 現在は退官した63歳の服藤氏は、科学と捜査の融合に捧げた警察人生を、1冊の本にまとめた。『警視庁科学捜査官 難事件に科学で挑んだ男の極秘ファイル』(文藝春秋刊)では、数々の重大事件に科学捜査がどう寄与したかが、初めて明かされる。

 薬毒物犯罪を専門とする服藤氏にとって忘れられないのが、ルーシーさん事件だ。織原の逮捕と家宅捜索に出向いて驚いたのは、薬問屋かと見まがうばかりの大量の薬品だった。何種類もの睡眠剤のほか、脱法ドラッグも多数あった。

織原の田園調布の自宅を家宅捜索

 犯行を記録したビデオでまず注目したのは、被害女性の皮膚に、叩かれた痕のような赤い部分が見えること。テープを巻き戻すと、最初はその発赤が認められない。精査するうち、ベッド脇の照明スタンドが倒れて被害者にぶつかる場面があった。

被害者の様子から薬品を特定

ルーシー・ブラックマンさん

「これは火傷だ、と気づきました。準強姦は3年以上の有期刑ですが、傷害が加われば最高で無期懲役になるな、と考えたのを覚えています」

 その発赤は、先にビデオを検証した捜査員の誰も気づかない点だった。

 次に注目したのが、意識を失った被害女性の顔に、常にタオルがかけてあることだ。首を動かすなど覚醒の予兆が見えると、織原はベッド脇のテーブルから褐色の薬品瓶を取って、中の液体をタオルにかけて再び顔に乗せる。すると被害者は、無意識の状態に戻ってしまう。

 麻酔系の薬物が疑われたが、エーテルは揮発性が高いので、自ら吸い込んでしまったり爆発する危険がある。したがって、クロロホルムだろうと推測された。

「ビデオを静止画にして、瓶のラベルを読み取ろうと試みましたが、あの頃の解析技術では文字までは判別できませんでした。

 一方、ラベルが剥がされた瓶も使われていました。きれいに剥がれているわけではなく、糊の跡とラベルの一部が残っている。それを眺めているうち、『この剥がれ方は、世界にひとつしかない。つまり、指紋と同じではないか』と気づいたんです」

 ビデオに写った瓶を探し出し、その内容物を鑑定すれば、使われた薬品を特定できると考えたのだ。押収物の中からラベルが剥がされた瓶を見つけ、さまざまな角度から撮影した静止画を組み合わせて、360度の立体画像を作成。それを回転させながら、ビデオに写った瓶と角度を合わせていくと、剥がし跡がピタリと一致した。

「3D画像を捜査に活用したのは、あのときが初めてでした。いまなら、コンピュータ上で簡単に処理できる作業ですけどね」

 その瓶に残っていたのは、純度99.99%のクロロホルムだった。今度は被害者の様子から、使われた薬品がクロロホルムだと特定できれば、証拠は万全だ。

 ルーシーさんが行方不明になる8年前、オーストラリア人女性カリタ・シモン・リッジウェイさん(当時21)が、織原のマンションから病院へ運ばれた後に亡くなっていた。劇症肝炎から肝性脳症を併発したのが死因だが、織原との関係を詰め切れず、立件できないままになっていた。

 医学の博士号を取得していた服藤氏は、クロロホルムに肝臓毒性があることを知っていた。さらに解明を進めると、

「ビデオに写ったカリタさんは意識を失っているのに、腕を左右に大きく広げて、鳥が羽ばたくような仕草をする場面があったんです。これは『羽ばたき振戦』といって、肝性脳症の初期段階に現れる特異な症状だとわかりました」

 服藤氏はこうしてビデオを手掛かりに、犯行に使われた薬物を突き止める。だが、ルーシーさんは、神奈川県三浦市の織原のマンションから近い海岸の洞くつで、切断されて埋められているのが見つかった。

遺体は織原所有のマンション近くで発見

 服藤氏は、一連の事件の捜査会議に参加しなかった。

「当初から、クロロホルムの毒性や事件で使われた証拠について裁判で証言できるのは、自分しかいないと考えていました。

 被告の弁護士から、『捜査情報を知っていたから、先入観に基づいて鑑定を行ない、意見書を作成したのだ』と突っ込まれる余地を与えないために、私見を排除し、情報を遮断する必要があると考えたんです」

「科学は嘘をつかない」

 現場の刑事から嫌みを言われもしたが、科学者として中立性を保つように心掛けたのだ。法廷で、被告の弁護士は服藤氏に尋ねた。

「証人は、クロロホルムを用いた研究などしたことがありますか」

 毒性の研究目的で使った経験がないから、本当は詳しくないんだろうという狙いの質問だ。

「毒性などはすでに確立した分野ですので、毒性の研究目的に使用したことはありませんが、動物実験でマウスなどを使用したときの安楽死のために、クロロホルムを使用していました」

 この服藤氏の答えは、クロロホルムの毒性をかえって印象付ける結果となった。2010年12月、織原の無期懲役が確定する。

 警視庁が科学捜査官という専門職を新設したきっかけは、95年のオウム真理教事件だった。教団施設から押収された大量の薬品や化学物質、実験データの書かれた書類の解析を一任されたのが、当時は科捜研の研究員だった服藤氏だ。

オウムのサティアン内を捜査する服藤氏

 犯罪捜査で科学の重要性が増すことを認識した警視庁は、科学捜査官を公募。服藤氏は採用試験を経て、捜査1課科学捜査係の係長に就任した。同時に、警察庁刑事局捜査1課の専門捜査員にも指定され、他府県で起こった事件の捜査にも協力する立場となる。この本では、地下鉄サリン事件、和歌山毒物カレー事件、新宿歌舞伎町ビル火災、長崎・佐賀連続保険金殺人などの捜査秘録も綴られる。

 上層部に重用されるにつれて生じる組織内の軋轢や、科学捜査に理解を示さず旧来の手法にこだわる刑事との葛藤。服藤氏は一貫して「科学は嘘をつかない」を信条に、実績で彼らの信頼を勝ち取っていった。服藤氏らの活動により、今では全ての都道府県の警察で「科学と捜査の融合」が具現化されている。
 

source : 週刊文春 2021年4月1日号

この記事の写真(5枚)

文春リークス
閉じる