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79歳母を残して 古賀稔彦(53)恩人が見た親孝行

「週刊文春」編集部
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「ソウル、バルセロナ、アトランタと何度も海外に連れてってもらって……。バルセロナの時にはベンツの左ハンドルを握って、地元の祝勝パレードの会場に乗せていったけん。誇らしくてねえ。息子のように思っとったけん、言葉が見つからんとです」

 悔しさを滲ませながらこう語るのは、柔道家の古賀稔彦(享年53)と地元・佐賀県みやき町で40年以上も家族ぐるみの付き合いを続けてきた中嶋千里さん(75)である。古賀が柔道少年だった頃、焼き肉やうなぎを食べに連れ出しては励まし続けた、古賀にとっての恩人でもある。

3月23日付で九段に昇段
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 華麗な一本背負いを武器に、バルセロナ五輪男子柔道71キロ級で金メダル、続くアトランタで銀を獲得。爽やかな風貌で一世を風靡した平成の三四郎。古賀が病魔との闘いを終えたのは、3月24日のことだった。

「古賀さんは昨年の初め頃にがんが判明し、昨年5月に片方の腎臓を摘出。一時は快方に向かうと思われたのですが、転移が見つかった。それでも3カ所の病院に通いながら懸命に病と闘った。手術後にはげっそりと痩せ細ってしまったのですが、昨年秋に試合会場を訪れた時には周囲に心配をかけまいと『ダイエットをしている』と言っていたそうです」(スポーツ紙記者)

訃報を告げられた母親は……

 だが、最愛の母・愛子さん(79)には病状を伝えていなかった。

「亡くなる約1週間前、稔彦のお嫁さんから『検査入院する』という連絡があったそうで、『たいしたことなさそう』と愛子さんは安堵されていたんです。亡くなった後に元博さん(古賀の兄)から『稔彦が逝ってしまった』と伝えられたそうですが、『どこに行ったのか』と事態が飲み込めなかった」(中嶋さん)

アトランタ五輪後の古賀と中嶋さん

 中嶋さんと古賀の出会いは、古賀一家が福岡県からみやき町に引っ越してきたときだった。当時、古賀は小学生で、中嶋さんの長女と同級生になった。そして愛子さんは中嶋さんの妻・泰子さんと“ママ友”に。

「稔彦のお父さんの稔朗さんは鉄工職人で、仕事で左目を悪くしてメガネをなさっていたけど、教育熱心な方でねえ。口数は多くなく、一本気な人だった。お母さんは社交的な方で、稔彦はどちらかというとお母さん似でしょう」(同前)

 小学1年生のとき、兄の影響で柔道を始めた古賀。兄とともに地元の千栗八幡宮の146段の石段を7往復して足腰を鍛えた。八幡宮の東正弘宮司が語る。

「トップに立つには人と同じことをしていてはいけないというお父さんの教えがあって、皆が寝ている時間から練習を始めていた。お父さんは石段の下で兄弟を見守っていたそうです」

 中学1年で上京し、柔道エリートを養成する東京・世田谷の講道学舎の門を叩いた。中嶋さんの息子も、古賀の背中を追いかけて講道学舎に入門したことから、中嶋さん夫妻はしばしば上京。古賀を食事に連れていく機会も多かった。

「稔彦が高校生の時、大学2年生のお兄さんとの対戦が実現してね。お父さんはどちらを応援するのか、何ともいえない困った顔をなされてねえ。私も2人をキョロキョロ見ちゃって。結局2人とも応援して弟が勝ったんだけども、あれには参りました」(中嶋さん)

90年、71kg級ながら体重無差別の全日本選手権で決勝進出。小川直也に敗れた

 20歳で初出場したソウル五輪は3回戦で敗退。捲土重来を期した1992年のバルセロナでは、現地入り翌日、講道学舎の後輩、吉田秀彦(51)との練習で大怪我を負ってしまう。

「当時は弟分の吉田が絶不調。それで実戦に近い“一本稽古”で調子を上げようとした。現地の練習場はマットだったので、つんのめるのを防ぐため少し水を撒いたのですが、それで足が滑って左膝のじん帯を損傷」(前出・記者)

 バルセロナで男子柔道競技主将を務めた65キロ級代表の丸山顕志氏(55)が回想する。

 

「試合当日までほとんど寝たきりの状態で、監督やコーチには『最悪です』と報告していました。なんせ減量のためにほぼ飲まず食わず。そんな崖っぷちな状況なのに、古賀は『先輩、大丈夫ッスよ。金メダル獲りますから』と言い放ってました。球技や水泳などはからっきしで、ベンチプレスも80キロ挙がるか挙がらないか。それなのにいざ道場で組むと“柔道力”がすごい。切る、つまり相手に組ませない技術も半端ない。まさに柔道の申し子」

 手負いの身で、見事金メダルを獲得したのだった。

 だが、1996年、アトランタで連覇を狙う古賀を悲しみが襲った。2月18日、父・稔朗さんが悪性リンパ腫のため55歳で死去。愛子さんによる懸命の看病の末だった。

稔朗さんの遺影を胸に古賀を応援する愛子さん(アトランタ五輪)

「いつも母親を喜ばせる子」

「私は、稔彦が愛子さんに自分の病気について言わなかったのもわかる気がするんです。看病で苦労してきたお母さんの姿を見てきたからこそ、稔彦は心配をかけられないと思ったのかもしれません」(中嶋さん)

 父亡き後、古賀はアトランタ五輪を経て現役を引退。後進の指導にあたる多忙な日々を縫っては、ひとり故郷で暮らす愛子さんの元を訪れ、甲斐甲斐しく世話をしていた。

 古賀が子供の頃、大会を控えた息子のために愛子さんは深夜、稔朗さんと近所の川に出かけ、うなぎを釣った。それで弁当をつくり古賀に持たせた。バルセロナ五輪の表彰式後、古賀は真っ先に観客席に駆け寄った。そして愛子さんの首に金メダルをかけ、母への感謝の念を世界中に示したのだった。

「引退後は空港でレンタカーを借りて帰ってきてね。愛子さんを車に乗せては靴や洋服を買いにいってね。愛子さんは『マネキンみたいに着せてくれる子やったー』と。買い出しに行って、料理も作ってくれてるって言っとりました」(同前)

 意外や古賀は“女子力”の高い一面があった。

「とにかくマメで、掃除や洗濯好き。料理も得意で、18番は天ぷら。講道学舎時代にはドーナツを作って仲間にふるまったという話もある。彼は全日本女子柔道チームの強化コーチも務めましたが、女子力の高さゆえか、女子選手からの人気が高かった」(前出・記者)

 愛子さんが、最後に古賀と連絡を取ったのは今年の2月上旬のことだった。古賀の好物「まるぼうろ」を宅配便で送ったところ、「ありがとう」と電話があったという。

 中嶋さんが語る。

「『いつも母親を喜ばせてくれる子じゃった』と愛子さんはおっしゃっていた。残されたお母さんは、さぞさみしかろう。本当に早すぎますよ……」

 不世出の柔道家である前に、一人の孝行息子だった。

3月29日の葬儀には約1000人が参列

source : 週刊文春 2021年4月8日号

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