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「北の国から」盟友が明かす田中邦衛

《高倉健の褒め言葉》《生徒の一言で教員を辞めた》

「週刊文春」編集部
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「食べる前に飲む!」の大正漢方胃腸薬のCMでもお馴染み
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「クニさんへのダメ出しはいつも1点のみ。『芝居をしないでね』と。21年間、ずっとそれだけでした」

 ドラマ「北の国から」(フジテレビ系)の演出を手掛けた杉田成道氏(77)が、かつての“盟友”を偲んだ。

 3月24日、俳優の田中邦衛が静かに逝った。享年88。老衰だった。誰もが知る代表作が「北の国から」。北海道富良野市の大自然を舞台に、田中演じる父・黒板五郎と2人の兄妹の成長を、1981年から2002年にわたって描いた国民的ドラマである。

「クニさんも最初は『俺の役じゃねえな』と苦しんでいた。だけど、クニさんの芝居に滲み出る人間性は五郎そのものでね。だから芝居する意識を捨ててくれと言い続けました」(同前)

 倉本聰氏の脚本も、次第に素の田中を想定して描かれるようになっていった。

「芝居との向き合い方は、本当に真摯でしたよ。あれは『北の国から ’95秘密』の時かな。大竹しのぶさんと長い掛け合いがあって、OKは出したけど、翌朝、クニさんが僕の部屋を訪ねてきて。『気持ちを空白にしてできていなかった気がして。杉ニイ、もう1回撮り直してくれないか』と。大竹さんもクニさんの真面目さに感嘆し、帰る飛行機を遅らせて、撮り直しに応じてくれました」(同前)

 田中は1932年、岐阜県土岐津町(現・土岐市)に生まれた。実家は100年以上続く美濃焼の窯元で、7人兄弟の次男。中学時代は不良少年で成績は200人中196番目。高校以降は千葉県の全寮制私立の廣池学園で短大部まで過ごした。

 短大卒業後、俳優座養成所の入所試験を受けるも二度続けて不合格。昔の恩師に頼まれた田中は、故郷の中学で代用教員として10カ月ほど教壇に立った。担当は英語と国語、体育だったという。本人から聞いた当時の秘話を杉田氏が明かす。


杉田氏
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「英語の授業で黒板にレッスンを『LESON』と書いて、生徒から『先生、Sがひとつ足りません』と(笑)。こりゃダメだと再び役者の道を目指したんです」

 三度目の正直で、俳優座養成所に合格。当時22歳、受験資格上限の年齢だった。同期には井川比佐志や露口茂らがいた。

 田中は以後、名脇役として比類なき存在感を放ち続ける。加山雄三主演の「大学の若大将」(1961年)で“青大将”を好演し、シリーズのレギュラーに。「仁義なき戦い」(1973年)ではシリーズを通じ、狡賢く立ち回るヤクザを演じ切った。そして、「北の国から」の主人公に抜擢されたのが、48歳のとき。

「当初はね、五郎役の候補に高倉健さんも上がっていたんです。でも、今となってはクニさん以外には考えられない」(同前)

 後年、高倉健は杉田氏に会った際、こう話した。

高倉健

「俺じゃなくて、クニでよかったよ」

 田中といえばよくモノマネされたのが、尖らせた口からこぼれ出る独特のセリフ回し。実は、初めて田中の形態模写をしたのは、その高倉だった。

 1965年の「網走番外地」シリーズ第一作。刑務所の風呂場の脱衣所で、田中演じる囚人がこう粋がる。

「そやな。早いとこシャバに出て、稼いで稼いで稼ぎまくったろうやないかい」

 それを聞いていた主人公役の高倉は、口調を真似てオウム返しして、両指で目じりを下げ、田中のたれ目まで再現したのだ。田中と親しかった山形県在住のラジオパーソナリティー・荒井幸博氏が補足する。

「邦衛さんによると、モノマネは健さんのアドリブだったそうです。後の映画『居酒屋兆治』(1983年)では、健さん演じる主人公の親友役だった邦衛さんが、小競り合いで健さんの頭をはたくシーンがある。今度は邦衛さんのアドリブで、健さんが思わず吹き出していた。健さんの思い出話をする邦衛さんは本当に楽しそうでした」

 高倉とは30本以上の作品で共演。2つ年上だったトップスターを、田中は敬愛してやまなかったという。

「健さんがご存命だった10年ほど前。地方のラジオ局が行ったアンケート企画で、邦衛さんが『北国が似合う有名人』の1位になり、出演依頼が来た。ところが邦衛さんは、3位が健さんだと知ると、『自分が健さんより上なんてあり得ない』と、頑なに固辞して出演しなかったんです」(同前)

「GUCCI」と書いたレジ袋

 映画プロデューサーの奥山和由氏も、田中を「出世欲を全く感じさせない役者さんだった」と振り返る。

「私が駆け出しの頃、映画撮影の現場でロケバスの最前列に乗っていると、邦衛さんがフラッと隣に座ってね。どこの小僧かも分からない初対面の私に『今日は天気がいいなあ。仕事じゃなきゃ最高なんだけど』と笑いかけてきた」

 酒は飲まず、ギャンブルもやらない。売れっ子になっても、スタッフと全く垣根をつくらない。どこまでも庶民派の俳優だった。

 80年代以降、公私にわたって親交があったCM演出家の名村大作氏が語る。

「照明や技術の助手をしている若い子とも話が合っちゃう。横浜の家から東京に来る時もだいたい電車。『GUCCI』とマジックで書いたレジ袋をカバン代わりにして、電車に乗ってるなんて言って周囲を笑わせたりしてね。邦衛さんの仕事だとみんなニコニコして、いつも現場が明るかった」

 プライベートでは、30歳の時に結婚。3つ下の妻との間に、2人の娘を儲けた。長女は現在、NHKの広報局長を務めている。

「とても家族を大切にする人でした。地方ロケに『奥さんもどうぞ』って誘うと、凄く喜んで、よく一緒にみえていました。奥さんも嬉しそうで、邦衛さんも奥さんがそばにいたほうが楽だったんでしょう」(同前)

 また、大の照れ屋でもあった。再び杉田氏の話。

「シャイだから自分の作品は絶対に見なかった。『北の国から』の放送がある日はずっと自宅の風呂に入ってると言っていました。家族といると照れ臭くて風呂に逃げるしかないんだと。ドラマは3時間の時もあるから、『のぼせちゃうよ』なんて笑い合ったものです」

 野球好きで、長嶋茂雄の大ファン。若い頃に通った横浜市の自宅近くにあるバッティングセンターには、ホームラン賞の受賞者パネルに「田中邦衛」のプレートが掲げられている。

ホームラン賞の受賞プレート
バッティングセンターでの田中

 公の場に姿を見せたのは2012年8月、青山葬儀所で地井武男のお別れの会に出席したのが最後。俳優としては、2010年公開の映画「最後の忠臣蔵」が遺作となった。同作のメガホンを握った杉田氏が語る。

「その頃からクニさんの体調は芳しくなく、奥さんも現場に来てつきっきり。撮影も気を遣った。いつか別れの日が来る覚悟はしていました。年上だけど先輩というより友達。クニさんと出会えてよかった。『ご苦労様でした』と言いたい」

 最晩年、自宅で過ごしていた田中は、最期を家族に見守られながら、高倉や地井ら大好きだった俳優仲間がいる天国へ、安らかに旅立っていった。

〈うまくいえんが、遺すべきものはもう遺した気がする。金や品物は何も遺せんが、遺すべきものは伝えた気がする〉(「北の国から 2002遺言」より)

 残した出演作品は200本以上。その中で田中は、この先も永遠に生き続ける。

source : 週刊文春 2021年4月15日号

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