3月22日午前6時半過ぎ、東京・霞が関の中央合同庁舎5号館に構える厚生労働省本省。薄曇りの空の下、救急隊員や警察官が建物の周囲を慌ただしく動き回る。高層ビル8階の窓ガラスは割れ、血の海と化したオフィスの床。そして、1人の男が血まみれになって倒れていた――。
厚労省と言えば、老健局の職員23人が深夜まで送別会を開いていた問題が批判を浴びたばかり。厚労省担当記者が語る。
「送別会は、老健局老人保健課の課長が主催しました。緊急事態宣言の解除から僅か3日後、都が夜9時までの時短要請をしていた時期です。にもかかわらず、11時まで営業する店を探して予約し、0時近くまで飲み続けていた。田村憲久厚労相も謝罪し、参加した職員のうち20人の処分を発表しました」
だが、この“23人宴会”が開かれた2日前、実は厚労省では、凄惨な事件が起きていたのだ。
事情を知る厚労省関係者が明かす。
「血まみれで倒れていたのは、年金局でシステム関連の仕事に従事していた40代のノンキャリ職員、A氏です」
一体、彼に何が起こったのか。
「秋田出身のA氏は読書家で、いつも様々なジャンルの本を持ち歩いていました。ただ、5年前に妻と離婚し、3人の子ども達とも離れて暮らしていた。その頃からうつ病を患うようになりました。それでも、自らのペースで真面目に仕事をしていたのですが……」(同前)
2019年春頃、現在の部署に異動したA氏。同じタイミングで異動してきたのが、50代のB氏だった。A氏の上司になる人物である。
「B氏は旧社会保険庁採用の職員で、年金の調達システムなどに精通したスペシャリストです。専門的な知識を持っているので、審議官や局長にも毎日のように呼び出されるほど。妻子もいますが、連日残業している上、土日も頻繁に出勤しています」(同前)
自殺未遂直前に送ったメール
対照的なタイプの両者。席を並べてまもなく、部署内に轟くようになったのが、B氏からA氏への怒鳴り声だった。
年金局職員が証言する。
「B氏から振られた仕事の要求水準が高すぎて、A氏はなかなかこなせていなかった。それで、B氏は『簡単な仕事にいつまでかかってるんだ!』『バカか、お前は!』などと、同僚たちの目の前でA氏を叱るようになったのです」
A氏は異動して半年が経った19年秋頃、うつ病を悪化させて休暇を取得。約1カ月後、職場復帰を果たしたのだが、
「部署全員が受信する業務メールも、1人だけCC(同時送信の宛先)から外されるようになったのです」(同前)
自分は無視されたと受け止めたA氏。必死の想いで抵抗を試みた。
「昨年6月、新たな人事院規則が施行され、国家公務員の行ったパワハラは懲戒処分の対象となるよう厳格化されました。その人事院が作成した周知用のリーフレットを、机の上に見えるように置いていた。B氏を牽制しようとしたのでしょう」(同前)
それでも、一向に状況は変わらなかったという。
「上司にあたる課長級のキャリア官僚も、B氏の言動を目の当たりにしていました。にもかかわらず、仕事ができるからか、彼に何も注意することはありませんでした」(同前)
そして――。
3月22日、別の部署への異動の内示を受けたA氏は、未明に挨拶メールを送信。宛先はB氏で、CCに同僚や知人らのアドレスを入れた。〈本当にお世話になりました〉と一般的な異動の挨拶から始まるメールだったが、途中から書きぶりがおかしくなる。
〈パワハラ→鬱病(病休・休職)〉
〈なにやっても出来なくなった方の負けです〉
などと〈パワハラ〉という単語をはじめ、B氏から受けた被害を示唆する内容が10行以上にわたって綴られていたというのだ。
「改行が不自然なメールを注意深く読んでいくと、縦読みで〈Bにころされた〉と読める部分があったといいます」(同前)
ダイイングメッセージにするつもりだったのだろうか。このメールを一斉送信した直後のことだった。
「ガシャーン!」
A氏は事前に準備していたハンマーで合同庁舎の窓ガラス1枚を派手に叩き割り、そこから飛び降り自殺を図ろうとしたのだ。ただ、
「窓ガラスから身を乗り出したものの、すんでのところで思いとどまった。窓ガラスの破片で負傷し、全身血まみれのまま、B氏の机の近くで夜明けまで数時間以上佇んでいたそうです。早朝に出勤してきた職員は騒然となり、幹部も様子を見に来ていました」(同前)
その後、救急車で病院に運ばれたA氏。手首を深く切っていたため、緊急手術を受けた。ただ、新型コロナに伴う病床ひっ迫の影響で、入院できず、親族の元へ身を寄せたという。
次官に上がった報告書の中身
その数日後、厚労省ではB氏らへのヒアリングをもとに報告書が作成された。ところが、その中身は、
「『職員がガラスを割って負傷し、出血する事案があった。ケガの程度は軽く自宅療養中。この職員は精神的に不安定なので、仕事を与えないように配慮をしていた』というもの。あたかもA氏の側に問題があったかのような内容で、事務次官にまで報告は上がりました」(厚労省幹部)
事実関係について、樽見英樹次官を直撃した。
――職員がパワハラを苦に自殺を図った?
「窓ガラスが割れた件ですね、事実関係は知っています。しかし、原因がパワハラで自殺を図ったという報告は受けていません」
――パワハラがもし事実なら調査も?
「パワハラをしたということが事実であれば調査が必要になります。いずれにしても、どういう理由でそういう(ガラスを割る)行為に及んだのかを調査していると思います」
厚労省にも改めて事実確認を求めたところ、
「現在事実関係を確認中であり、回答を差し控えます」
パワハラ問題に詳しい佐々木亮弁護士が指摘する。
「厚労省が定めたパワハラ6類型では、暴言は『精神的な攻撃』、CCでメールを送らないのは『人間関係の切り離し』、仕事を振らないのは『過小な要求』。6つのうち1つだけでも問題なのに、今回は3つが当てはまります。特に精神的に苦しんでいる人をターゲットにしていたとすれば、悪質と言っていい。まして、パワハラ問題を所管する厚労省で起きた問題です。最近も同省では、パワハラ相談員だった室長補佐(当時)が部下へのパワハラで処分されたという問題があったばかり。厚労省はA氏にもヒアリングをした上で、事実関係を明らかにするべきでしょう」
A氏がハンマーで破壊した窓ガラスは現在、修理が進められている。だが、心の傷は簡単には治らない。
source : 週刊文春 2021年4月15日号