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「ジュリーがいた」短期集中連載 沢田研二を愛した男たち1

島﨑 今日子
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 1960年代後半から80年代初頭。音楽やファッションが革新を遂げ、サブカルチャーが花開き、BLが生まれる。その中心には必ず彼がいた――。

 

(しまざききょうこ 1954年、京都市生まれ。ノンフィクション・ライター。著書に『森瑤子の帽子』『安井かずみがいた時代』『この国で女であるということ』『だからここにいる』などがある。)

 東アジア発のBLが、今やすさまじい勢いで世界を席捲している。

 BL、ボーイズラブとは男同士の愛を描く女性向けの商品を指し、日本では、2016年暮れにテレビ朝日で放送された「おっさんずラブ」がブームの契機となった。19年には、テレビ東京がよしながふみの漫画「きのう何食べた?」を、20年には豊田悠の漫画「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」をドラマ化してヒットさせている。いずれも深夜枠だったが、今年の正月、NHKはゴールデン枠で、「ライジング若冲〜天才かく覚醒せり〜」を放送。江戸時代の天才画家、伊藤若冲と、彼の代表作「動植綵絵」が寄進された相国寺の大典和尚との愛を中心に描いた。映画でも若手人気俳優たちが男同士の恋を演じ、YouTubeではタイのBL人気が沸騰した。K-POPも、メンバー同士の親密さがファンの妄想をかきたてるという点なくして、その人気は語れない。

 BLを好む女性を、腐女子と呼ぶ。大河ドラマ「麒麟がくる」も、腐女子なら、光秀が愛ゆえに信長を殺す物語として解するのだ。

 腐女子を自認し、BL研究の入門書『BLの教科書』の執筆者の一人である石田美紀・新潟大学経済科学部教授のもとには、タイのBLを研究したいという学生がやってくるようになった。

「ある時まで、腐女子専用の楽しみで、隠花植物のようだったBLがここに来て一気に商品化された感があります。ゲイ・カルチャーとは違う、男性同士の愛情表現のエンターテインメントがウケているのは欧米でも南アフリカでも同じで、世界的な傾向です。中国からの男子留学生は、中国13億人のうち1億人は腐女子だと言っていましたから」

 BLは1970年代の日本で、終焉を迎えた全共闘運動と入れ代わるように登場し、自分たちの表現を求めた天才少女漫画家たちによって誕生した。萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子ら昭和24年前後に生まれた「花の24年組」の描く男同士の愛や絆は少年愛と呼ばれて、少女たちに熱狂的に迎え入れられていく。そして同じ時期に、テレビの世界でも記念碑的作品が生まれていた。

 国連が国際婦人年を宣言した年、1975年6月からTBSで放送された沢田研二主演の「悪魔のようなあいつ」である。それは、「日蝕は起こるだろうか」というタイトルがつけられた長い企画書から始まった。数々の先駆的なドラマでテレビの黄金期を担い、エッセイや評論、小説の分野でも活躍した久世光彦が、沢田と、彼が所属する渡辺プロダクションの社長、渡辺晋を説得するために書いたものだった。その頃、歌手である沢田と彼の周辺は映像への露出には極めて慎重であった。

 久世がプロデュースと演出を手がけ、原作は作詞家の阿久悠と漫画家の上村一夫、脚本は、後に沢田主演で「太陽を盗んだ男」を撮ることになる映画監督の長谷川和彦。当代一流のクリエイターたちが集結した作品はドラマに先行して漫画が連載された、いわゆるメディアミックスの先駆けでもあり、腐女子や研究者の間ではBLドラマの嚆矢とされる伝説のドラマとなっている。

「太陽を盗んだ男」(右は菅原文太)
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 作品のモチーフとなったのは、放送年の12月に時効を迎えた昭和最大の未解決事件、3億円事件。沢田演じる3億円事件の犯人、可門良はバーで歌い、男娼でもあって、不治の病に冒されている。時のトップスターが上半身裸でベッドシーンを演じるなど、今のアイドル・ドラマでは到底考えられないシーンが展開される。エンディングには、良がギターを弾きながら歌う「時の過ぎゆくままに」が流れ、阿久悠作詞/大野克夫作曲のこの曲は沢田研二最大のヒット曲となった。

 若山富三郎、篠ヒロコ(現・篠ひろ子)、安田道代(現・大楠道代)、荒木一郎、悠木千帆を名乗っていた樹木希林など錚々たる俳優陣で、画面にはエロスと暴力と頽廃が充満し、女たちだけではなく、周囲の男たちをも狂わせながら破滅へと向かっていく良は壮絶なまでに美しい。良と、藤竜也が演じたバーのオーナー野々村の危険な関係は、視聴者の胸をざわつかせた。

 まだ小さな女の子だった頃にこの作品に魅(ひ)き寄せられた、と小泉今日子が久世の著作に収載された鼎談で語っている。

〈わたしは子供でしたけど、もう寝なければならない時間なのに、どうしても観たくてたまらないドラマでした。当時、ジュリーはキラキラしている素敵なスターで、その人がこんな大人のしっとりした歌を歌う姿に、子供ながら何か感じていたんでしょうね〉(『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』)

 1948年6月生まれの沢田は、「花の24年組」と同じ団塊の世代で、この時、26、7歳だった。67年、18歳でザ・タイガースのリードヴォーカルとしてデビューしてグループサウンズ(GS)ブームの先頭を走り、タイガース解散後は、萩原健一とツインヴォーカルだったロックバンドPYGを経て、ソロになった。それからは「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞し、新曲を出せばその斬新なファッションも含めて話題になる時代のアイコンだった。71年のソロデビューから15年間の国内シングル盤総売り上げはトップ、沢田はポップスターとして覇権を握り続け、日本中の女たちが「ジュリー!」と叫んでいた。

 70年代後半にブームを巻き起こしたピンク・レディーを世に出すなど、ヒットメーカーとして歌謡界に君臨していた阿久は、自著『夢を食った男たち』の中で沢田の魅力を語っている。

〈何十というグループ・サウンズのソロ歌手の中で、沢田研二の魅力は群をぬいていた。華やかさだけではなく、艶やかさもあり、危険をはらんだ毒性もあった。少女たちは花を見、はるか年長のプロの男たちは、毒を感じて評価していた〉

 向田邦子と組んだドラマ「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」で高視聴率を弾き出していた久世は、沢田を「女優だ」と語った。人気絶頂の若手アイドル、郷ひろみも西城秀樹も、さらには美貌で知られた美輪明宏さえ沢田の代わりにはなれない、と久世は後述する耽美雑誌のインタビューで断言した。

〈底がまるでわからないくらい深いからね〉

ジュリーと沢田は違う

 新潟大学の石田は、2011年に明治大学で開催された「耽美の誕生 ボーイズラブ前史」展での講演で、「悪魔のようなあいつ」の一部を上映したことがあった。「ギャーッ」「これが地上波で、ゴールデンタイムに流れていたとは〜」と声が上がり、会場はヒートアップしたという。

「1、2分見ただけで腐女子にはBLとわかるんですよ」

 この作品は過激な設定のせいか視聴率は伸び悩み、当初事件の時効直前に最終回を迎える予定が、9月に17話で終わってしまう。だが、熱狂的なマニアを生んだ。その中には、60年代に『恋人たちの森』で少年と大人の男の愛を書いた作家・森茉莉がいて、もう一人、森茉莉の後継者を任じ、BL小説のパイオニアとなる中島梓がいたのである。

「グイン・サーガ」など多数の人気小説を書いた小説家であり、評論家でもあった中島が「悪魔のようなあいつ」を観たのは早稲田大学を卒業した年、まだ商業誌にデビューする前だった。放送が終わった後、昂(たかぶ)った気持ちを抑えられずに遊びのように物語を書き出した。それが、79年に出版されたこのジャンルの草分けとされる栗本薫名義の『真夜中の天使』である。

『真夜中の天使』こと「まよてん」3部作の一つに、「悪魔のようなあいつ」の撮影時を物語の背景にした『翼あるもの』がある。後書きで、中島は、沢田をモデルにして長編4本、書きかけのものを含めればほとんど10本近くを考えたり書いたりした、と記す。

〈といってむろん、それは沢田研二という現実の存在について書いたのではないのだ〉

 2001年に発売された「悪魔のようなあいつ」のDVD最終巻に収録されたインタビューで、長谷川和彦も、沢田自身とジュリーの間には距離があると語っている。

「悪魔のようなあいつ」DVD(TBS)

〈実際に会って喋ったり飲んだりするようになって、まあ、「ジュリー」というより「沢田」なんだよね。周りもみんな「沢田」と呼ぶし〉〈彼自身はむしろジュリーであることを嫌がっているとこもあってね。嫌がるとは一言では言いづらいんだろうが、「ジュリーと沢田研二は違うのや」というふうに思っているところもあって〉

 沢田が、解散したばかりの人気デュオ、ザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚したのは、ドラマ放送直前であった。7月には、全国ツアーの初日となる比叡山の野外ライブで、瞼を青く塗ったジュリーは、白いベールをかぶり、鉄砲ユリを胸に抱いた名シンガーを「僕の妻です」とファンに紹介している。その3カ月前に行われたドラマの発表記者会見でも記者から結婚について質問が飛ぶほどで、誰もが、もちろん中島も人気者の結婚は知っていたはずだ。だが、そんな私生活など超えてファンを夢想させ、妄想させ、熱狂させる力を沢田は持っていた。そして、それこそがスーパースターの条件だった。

 78年に、中島が企画段階から参加した「男同士の愛」をテーマに掲げた専門誌「JUNE(ジュネ)」が、竹宮惠子のイラストを表紙にして発刊される。76年に栗本薫名義で発表した筒井康隆論で商業誌デビューを果たし、翌77年に「文学の輪郭」で群像新人文学賞・評論部門を受賞した中島は、この時期、栗本薫名義でのミステリ小説『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞して、新進作家、評論家として一身に注目を浴びていた。

 中島と竹宮を精神的支柱とした「JUNE」は耽美雑誌とも呼ばれて多くの少女を魅了し、漫画家や小説家を輩出、後進の女性たちに大きな影響を与えることになる。綾瀬はるか主演のドラマ「天国と地獄」で視聴者を翻弄し続けた脚本家の森下佳子は、71年生まれ。子供の頃から少女漫画に夢中で、高校時代には栗本薫が書くBL小説にハマり、「JUNE」に自作を投稿するほど夢中になった一人だ。

「あの頃にその言葉はまだなかったですけど、今で言う腐女子でしたよね。BLは女である自分が入る余地のないジャンルだからこそ入り込めた。その時代のBLには、愛の本質を突き詰めよう、人間の本質を描いてやるみたいな迫力がありました。ジュリーはもちろん好きでしたよ。今も企画の度にキャスティングに名前を挙げて、プロデューサーにもいいねと言ってもらえるんですが、どうせ出てもらえないだろうとそのまま立ち消えになってしまいます」

「JUNE」には、中島のミューズである沢田の記事や広告が多数掲載されていた。美少年ランキングでも、彼は映画「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンやデヴィッド・ボウイに対抗できる、日本の雄だった。読者のページでは、映画「魔界転生」での沢田と真田広之のキスシーンをめぐって、BLドラマに萌えるファンのSNS上のそれと同じような熱いやりとりが交わされていた。

 80年に創刊されたもう一冊の専門誌「ALLAN」では、82年発売の号で、阿久悠や、久世光彦が登場して放送から5年以上たつ「悪魔のようなあいつ」と沢田を語っている。阿久のインタビューのタイトルは、なんと「悪魔のようにすてきなジュリー」。

 久世のインタビューが載った号には、彼自身がラブレターだと言う企画書も掲載されていた。久世の沢田を語る言葉は熱を帯び、男同士のラブシーンは長谷川和彦ではなく自分が書いた、とも告白している。

〈ともかく色っぽいんだよ。どんな女優をもってきても沢田のほうが色っぽい〉

〈目の色変わってるって言われるけれど、実際ドキドキして(演出を)やってるからね。もう、最高の至福の状態になれるわけ〉

〈オレは沢田研二とならばいつでも一緒に死んでもいい、と思っているわけよ〉

 長谷川は、DVD収録のインタビューで「久世さんはともかくジュリーをどうカッコよく主人公にするか、ジュリーの魅力を生かしたいと思ってるわけだよ」と苦笑した。

「久世自身、そうだったんです」と亡き夫を語るのは、妻の久世朋子だ。朋子は、79年夏に名古屋で行われた沢田のライブに久世と共に出かけ、終演後に大野克夫らバンドのメンバーに混じって沢田と一緒にすき焼きを食べた。その時のことをよく覚えている。

「沢田さんは、『太る体質だから、このところにんにく醤油をかけた茄子のおひたしばかり食べている。肉は久しぶりだ』と言われていて。少し残ったご飯にお茶をかけるのが久世のいつもの締めなんですが、すき焼きの汁で汚れたご飯をお茶かけにするのをちょっとためらっていたら、沢田さんが『あ、それ、僕いただきます』とおっしゃったんです。久世はもちろん、周りも一瞬箸が止まりました。久世は耳元で『好きだよ』と言われたみたいな顔をしてました。フフフ、男の子たらしですね、ジュリーは」

 久世は、「悪魔のようなあいつ」放送の翌年も新しい試みに挑戦している。76年2月から7週にわたってTBSで放送された「セブンスターショー」は、日曜日19時半から21時までの枠で、1人の歌手が司会もMCもなく1時間半ぶっ通しで歌い続けるという贅沢な企画だった。

久世の最期にジュリーは

 7人のスターは、沢田研二、森進一、西城秀樹、布施明、荒井由実&かまやつひろし、五木ひろし、吉田拓郎というラインナップで、今ならNHKの「SONGS」に近いか。

 朋子の手許にある久世の企画書には〈同じ曲を、同じ顔と同じアクションで、まるで機械のように歌い続け、歌謡番組は10人内外の歌手たちの決まった歌を網羅するだけ〉と当時乱立していた歌謡番組への批判があり、旬のスターをもっと多面的に見せたいという意図があったようだ。ニューミュージック系のアーティストの登場で音楽界も変わりつつあった時期だったが、プロデューサーである久世が選んだトップバッターは自分の思いを具現化するに最も相応しい沢田であった。

 沢田の回は、2018年、42年ぶりにCS放送のTBSチャンネルで放送されている。

 肌を褐色に染め、銀ラメのベスト姿で「ジーザス・クライスト・スーパースター」を歌って登場した沢田は、「僕のマリー」「モナリザの微笑(ほほえみ)」「銀河のロマンス」などタイガース時代のヒット曲から「月光価千金」「フランチェスカの鐘」「ざんげの値打ちもない」といった普段歌うことのない曲も選び、河島英五の「いくつかの場面」を涙を流しながら歌って締めた。スパンコールが光るテラテラした生地のピンクのトップスや白いバギーパンツ、ストライプの黒のパンタロンスーツの胸には白い薔薇、肌が見えるように上半身を編み上げたレザースーツ。他の誰でもないジュリーにしか似合わない衣裳を着けた沢田の歌声はどこまでも伸びていく。スタジオには札が飛び、雪が舞い、雨が降って、縄を手にしたジュリーが、ずぶ濡れのジュリーが画面いっぱいに迫り、その姿は両性具有の半神の如くだ。

 構成/阿久悠、音楽監督/大野克夫、演奏/井上堯之バンド。ドラマ部制作のため、演出は極めてドラマチックだった。演出家は他にいるのだが、この過剰な、どこまでも沢田を追いつめてオーラを放射させる世界は久世の美学と言っていいだろう。だが、番組の視聴率は、わずか3.7%だった。久世は、77年に出た石原信一著『ザ・スター 沢田研二』で、その時の無念を語っている。

〈ぼくらは1億人の前にまだ無力に近かった。同情的に、裏番組が強力すぎたとか、日本の価値観がそこまでいってなかったという人もいるが、そんなことは関係ない。ぼくらはノーエクスキューズの商売をしているのだから〉

 シリーズの視聴率は総じて低く、普段テレビに出演することがなく、シリーズ最高の数字をとった吉田拓郎の回でさえ6.3%であった。あの頃、家庭にビデオデッキはなく、家族で見る日曜夜の時間帯に番組はそぐわなかったのかもしれない。ただ「悪魔のようなあいつ」の視聴率も伸びなかったことを考えれば、1935年生まれ、元祖腐男子の久世は早すぎた。

 50歳を過ぎて山本周五郎賞をはじめ数々の文学賞を受賞した久世は、執筆に時間をとられるようになってからも沢田を演出し続けている。2005年夏、恒例となった沢田主演のシアターコクーンの舞台で「センセイの鞄」を演出していた久世は、「これが最後になるのかもしれないなぁ」と呟いた。

 翌06年3月2日、久世光彦、急逝。沢田は、久世ドラマの主役を託され続けた妻の田中裕子と共に彼の自宅に駆けつけた。夫妻は、誰にも気づかれないようにして長い時間を演出家の書斎で過ごしたという。

(文中敬称略/つづく)

source : 週刊文春 2021年4月15日号

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