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「ジュリーがいた」短期集中連載 沢田研二を愛した男たち 2

島﨑 今日子
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「あなたがいなかったら、今の僕はいません」――。GSブーム前夜、大阪で彼を見出したのは内田裕也だった。陰に陽に続いた2人の関係を解き明かす。

 

(しまざききょうこ 1954年、京都市生まれ。ノンフィクション・ライター。著書に『森瑤子の帽子』『安井かずみがいた時代』『この国で女であるということ』『だからここにいる』などがある。)

 1964年東京オリンピックを契機にカラーテレビが普及し、67年には国民総人口が1億人に達したニッポン。テレビというメディアが大きな力を持っていく高度成長期に、若き久世光彦はTBSで人気ドラマ「七人の孫」や「時間ですよ」の演出を手がけていた。「読み人知らず」と題したエッセイには、その多忙の中、オールナイトの映画館で、翌朝デモに出かけるヘルメットの学生に混じって東映の任侠映画ばかりを観ていたことが綴られている。

 久世が繰り返し観たのは、「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」で、テーマソングの「唐獅子牡丹」が流れる中を高倉健と池部良が相合い傘で殴り込みに行くシーンに、見とれた。

〈健さんと池部さんの2人は、この上なく色っぽい、名コンビだった。日本映画史の中で最も美学的な配役だった。(中略)封印したドスを包んだ唐草模様の風呂敷を、パッと夜空に投げ捨てると、重々しいイントロが鳴り響き、粉雪が舞う中を2人はゆっくり歩み去る。殴り込みというよりは、艶(あで)やかな〈道行(みちゆき)〉だった〉

 全共闘の男たちが機動隊に向かっていく自分たちを重ねて「待ってました!」と声をかけた高倉&池部の殴り込みのシーンは、腐女子にとってはBLとしか見えない。久世も同じだった。

 高倉健主演で任侠ドラマを撮る夢は叶えられなかった久世だが、沢田研二と彼の兄貴分、内田裕也で男同士の道行を撮ることはできた。

 久世は、沢田のソロデビュー曲「君をのせて」を聴いた瞬間、ここで歌われる「君」とは男だと直感したという。演出家が、『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞したばかりの栗本薫こと中島梓に脚本を依頼したのは1978年のことだった。作家が25歳の時に書いた「哀しきチェイサー」は、「七人の刑事」の第28話で放送され、同時に「小説現代」でシナリオが発表された。

沢田のソロデビュー曲「君をのせて」(1971年発売)
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沢田と会うとドキドキする

 ドラマ界を牽引する元祖腐男子とBL文学の先導者の共同作業により生まれたのは、人気の刑事ドラマの中にあっては異色の作品だった。町の探偵、武司・内田裕也とその弟分で無垢な美少年ジロー・沢田というキャスティング。すべてセットで、町の探偵事務所には「カサブランカ」のハンフリー・ボガートのポスターが貼られ、沢田のヒット曲「君をのせて」「探偵――哀しきチェイサー」「LOVE(抱きしめたい)」や「As Time Goes By」が流れ、レギュラー以外のキャストは安岡力也に田川譲二と、みな沢田と内田の仲間たち。すべては久世のテイストで作られていた。

 ストーリーは、武司とジロー2人の濃密な関係を中心に展開する。武司の揉め事からジローはヤクザに刺され、助けに来た武司に「武司さん、どこへも行っちゃ嫌だよ、そばにいて」とすがりつき、やがて絶命する。武司は、ジローの亡骸に「俺はお前を置いていったりしない」「心配すんな。いつも一緒なんだから」と語りかけ、ヤクザに殴り込みをかけた後に自分の撃った銃が暴発し、ジローの傍に倒れ込んで息絶えてしまう。物語の最初と間と最後に、木枯らしの高原で風に吹かれながら2人がリンゴを齧り合い、洋モクを回し飲みしながらじゃれ合うように歩いて行くシーンが流れた。

 実は、後に久世の妻となる朋子も、のぐちともこの名前でこのドラマにジローと武司の仲間、ネコとして出演していたが、撮影時のことはまるで覚えていない。妻子ある久世との恋愛がのっぴきならないところまできていたためだ。久世は、朋子とのことがスキャンダルになって、翌79年に19年勤めたTBSを退社することになる。

「収録が11月で、その時、私は妊娠6ヶ月だったのです。そんな状態ですから、自分のことで精一杯でまわりの状況はほとんど記憶にありません。久世は、このテーマでは今しか撮れないと思っていたのでしょう。年が明けて子どもが生まれ、世界は変わりどうなるのか、私たちは互いに口には出さないものの不安を抱えていましたから。ただ、久世はあのドラマの裕也さんに自分を重ねていたのだと思います」

 久世は、内田について綴ったエッセイ「十階のモスキート」に、〈沢田研二は裕也が50年来、誰よりも愛する男なのである〉と書いている。久世の目には、腐女子がそう見るように沢田と内田は「カップリング」と映っていたわけでもないにしろ、少なくとも2人の近さをよきものとして見ていたのだろう。内田自身、「沢田と会うといつだってドキドキしちゃうんだ」と、周囲に話している。

 久世が沢田の信奉者、今風に言えば久世の「推し」が沢田だということ、内田裕也が、ザ・タイガースの前身、京都出身のファニーズを見出した発見者であり、沢田と親密なことはファンの間ではよく知られていた。

 1983年に発売された耽美雑誌「ALLAN」の読者欄には、沢田が内田のために作詞した「きめてやる今夜」を2人で一緒に歌った番組のレポートが載っている。そこには〈ジュリーは裕也さんのものよ、(中略)久世さんだって裕也さんに嫉妬してるんだから〉とあって、沢田と内田は、腐女子のファンには公認の「仲」だったとわかる。このあたりは、K-POPのグループ内の「わちゃわちゃ感」に沸くファン心理と完全にダブっている。

 出会って15年がたった頃に沢田と内田が「ミュージックフェア」で共演した時、司会の長門裕之は「ロックンロールだけではなく、人生的にも結ばれた2人」と紹介した。番組中、痩躯の2人がデザイン違いの、金と銀のドットで飾った白いスーツ姿で目と目を交わしながら昂揚して歌う姿は、格別のセクシーさだ。

 内田は、沢田より9歳年上で1939年に兵庫県西宮市で生まれた。戦後日本に入ってきたポップスを聴いて育ち、高校卒業後に音楽生活を始めて数々のバンドを渡り歩いていた。そんな彼が沢田と邂逅するのは、ビートルズ来日の年として日本音楽史に刻まれる1966年6月半ばのこと。ロカビリー・ブームやエレキ・ブームがあって、ザ・スパイダースとブルー・コメッツがいて、GSブーム前夜という時期だった。

 当時、内田はエレキの神様と呼ばれた寺内タケシが抜けたあとのブルージーンズをヴォーカルとして率いていて、ファニーズがレギュラー出演していた大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」にゲスト出演した。実は、一月ほど前に、沢田はメンバーの森本太郎と2人でスパイダースのリーダー、田辺昭知に会いに「銀座ACB(アシベ)」の楽屋へ押しかけて内田とすれ違っているのだが、その時もこの時も、2人が親しく言葉を交わすことはなかった。それからおよそ2週間後、30日の武道館では、内田がドリフターズやブルー・コメッツと共に前座を務めたビートルズのステージを、ファニーズの仲間と夜行列車に乗って上京した沢田が客席から眺めていた。

 内田がファニーズに「一緒にやらないか」と誘うのは、9月の初旬にブルージーンズと再び「ナンバ一番」にやってきた時だった。

 なぜ内田はファニーズに目を止めたのか。長身のベースギター岸部修三(現・一徳)とリズムギター森本太郎を両側において、真ん中にドラムス瞳みのる、リードギター加橋かつみ、ヴォーカル沢田研二という5人のフォーメーションと、ビートルズやローリング・ストーンズ、キンクスなどイギリスのバンドの曲をやっていることが気にいったのだ。自分のバックバンドにしようと声をかけた。

 沢田が、1985年に出した半自伝『我が名は、ジュリー』で、内田に出会った当時を語っている。その頃のファニーズは300人を擁するファンクラブができるほど関西では人気で、いくつかのスカウトが来ていた。だがメンバーは、自分たちなど内田には相手にされないだろうと思っていた。

〈ところが、ブルージーンズが「ナンバ一番」に再びやって来た時、僕らがステージを終わって、階段をトントントンと降りてきたら、廊下でバッタリ裕也さんに会って、君たち、俺と一緒にやんねぇか〉

 内田の奔走で10月初旬に「ナンバ一番」で彼の所属する渡辺プロダクションのオーディションが行われ、10月下旬には内田の知らないところでファニーズと渡辺プロの間で契約が交わされた。

 内田が近田春夫を聞き手に人生を語り下ろし、末井昭が構成と編集を手がけた2009年刊行の『俺は最低な奴さ』は、すこぶる面白い読物である。ここで内田が沢田を語る言葉は、愛に溢れている。デビューが決まった時に、沢田は一家で内田を銀閣寺そばにある自宅に招き、すき焼きをふる舞った。その時のこと。

〈そしたら、一升瓶の特級酒をバーンと1本、俺はすき焼きが好きだからと、肉をパッと見たらだいたいわかるじゃない、「こんな無理しなくていいのにな」みたいなよお、わかる? 並の肉じゃなくて上の上みたいな、いまでも覚えてるよ、これ以上の歓待はないような歓待だよね〉

 11月9日に上京したファニーズをその夜、内田は飯倉片町のイタリアンレストラン、キャンティに連れて行った。海外生活が長く、芸術に造詣が深い川添浩史&梶子夫妻が1960年にオープンしたキャンティは、サンローランやイブ・モンタンなど世界のセレブが顔を見せ、常連客には三島由紀夫や川端康成、黒澤明、岡本太郎、安井かずみ、加賀まりこら著名人が集う時の社交場であった。スター候補生に華やかな場所を見せてやりたいという親心から、内田は京都から来た若者たちを東京カルチャーの震源地に誘ったのである。

〈「なんでも好きなもん食べろ」って言ったら、加橋かつみはステーキだよ。沢田だけは「僕はパスタで結構です」って、バジリコのパスタ。ここで性格がよく出るんだよ、人間、食べ物でね〉(『俺は最低な奴さ』)

 沢田がステーキを食べたとしても、内田は感心したろう。後にタイガースの衣裳をデザインすることになるキャンティ・クイーン梶子は、メンバーを見た時、内田に「この子たち絶対スターになるわよ」と囁いた。

 12月、「内田裕也とザ・タイガース」は、ジャズ喫茶「新宿ACB」で初めて東京のステージに立ち、ビートルズの「ノーホエア・マン」を歌ってスタートを切った。この時、メンバーは内田に言われてそれぞれ芸名とニックネームを決めるのだが、沢田は、内田が考えた沢ノ井謙という芸名を「名前はひとつでいい」と拒んで本名を名乗ることになる。後々、沢田は「沢ノ井謙だったらどうなっていたでしょうね」と内田に言っていた。

 ちなみにニックネームのほうは、沢田が自分でつけている。好きだったジェリー藤尾から「ジェリー」と考えたものの失礼かと思い、やっぱり好きだったジュリー・アンドリュースからいただいた。背の高い岸部がリトル・リチャードの曲「のっぽのサリー」からとって女性名を使っていたし、英語の女性名には抵抗がなかったのだ。そしてファンにとっては、沢田が歌えばジュリーが女性の名前であることすら意識にのぼることはなかったのである。

タイガースと内田の別れ

 翌67年1月、タイガースは日劇ウエスタンカーニバルに新人としては異例のトリから2番目で出演した。100回以上リハーサルを積んだ上で、千歳烏山にあった内田御用達の美容院「たぶろう」で髪をマッシュルームカットにし、内田が青山の洋服屋で作ってくれた黒いベルベットのタキシードに蝶ネクタイという衣裳を着けて、奈落から派手に登場するのだ。歌ったのはその頃人気だったアメリカのグループ、ザ・モンキーズの「モンキーズのテーマ」を模した「タイガースのテーマ」1曲だけだった。この時だったか、ジャニー喜多川は、タイガースを見て、「どこから見つけてきたのよ」と内田に悔しそうな顔を見せたという。

 それ以降、「ACB」に詰めかけるファンは急増し、タイガースの爆発的人気へとつながっていく。ウエスタンカーニバル出演も、初めてのテレビ出演も内田の働きかけによるものだった。

 都知事選出馬や不倫騒動など、ロックンローラー内田には、常にスキャンダラスでエキセントリックなイメージがつきまとっていた。だが、写真家の神蔵美子が見た内田は違う。2011年、夫の末井昭と共に、山本政志監督の「スリー☆ポイント」公開記念トークのゲストとして登壇した内田をユーロスペースの楽屋に訪ねて、驚いたのだ。

「すごくチャーミングでした。例の愛人宅に押しかけて逮捕されたすぐ後でしたが、留置場での自分の番号は69だったんだと言って、ジョークにして悪びれず、極めて上品で。本を出してからは、亡くなるまで毎年欠かさず末井にお歳暮が届いてました。ハロッズの紅茶ととても美味しいクッキーのセットで、『謝 内田裕也』と直筆で書いた熨斗が貼ってありました。礼節の人です」

『我が名は、ジュリー』にもこうある。

〈いい意味での運動部のキャプテンみたいな、頑張ろうよな、練習しておけよ、みたいな、そんな感じで、思ってたよりずっと優しくてね。優しくきちんと見ていてくれる。だから、ほんとに、いろんな意味で、裕也さんに、一流のというか、そういう教育をされたように思う、着るものの趣味にしたってね。本当にいろいろ教わりました〉

 しかし、渡辺プロの描く青写真には、新しく売り出すGSに、1世代上で借金問題を抱える内田は入っていなかった。ザ・タイガースという名前も、当時フジテレビのディレクターだったすぎやまこういちが「大阪から来たからタイガースでいいじゃないか」とつけたもので、内田の頭にあった「TR・フォーとかスティングレーとかのシャープな名前」とは違っていた。橋本淳作詞/すぎやまこういち作曲によるデビュー曲「僕のマリー」もメルヘンチックで、ロックな内田の趣味ではなかった。ファニーズは「こんなの、嫌だ」と落胆しながらも受け入れるしかなかった。

 後に会社の選択を「あれでよかった」と思うに至ったという内田は、その時も、マネージャーたちに文句を言いながら、ファニーズを思って引き下がっている。

〈メンバーは関係ないんだから、未成年だし。とにかくもう「東京にはいたくねぇや」って思ったんだ〉(『俺は最低な奴さ』)

 67年の春、内田はタイガースと神宮外苑で野球試合をした後、メンバーに見送られて羽田からヨーロッパへ旅立った。沢田が最初の結婚をした時、内田は「週刊明星」に「親友ジュリー」へ長いコメントを寄せており、そこでこの日のことも回想していた。自分に代わってマウンドに立った沢田が速球で三振をとり始めるのを見て、サードを守る自分はテレとジェラシーを感じたと心情を吐露している。沢田は岡崎中学時代は野球部のキャプテンにしてファーストを守り、人生唯一の夢が立教大学へ進んでプロ野球選手になることだった。野球がうまいのは当然なのだが。

〈そこには若いロック・シンガーのういういしさと、パワーに押されがちなテメエ自身を感じた。(中略)現在のオレを支える大きなコンプレックスとガッツを生んでくれたと感謝している〉(「週刊明星」1975年6月15日号)

 ヨーロッパでの放浪生活でクリームやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなどのニューロックを吸収した内田は、1年後に帰国。世界に通用するフラワー・トラベリン・バンドで、音楽シーンに斬り込んでいく。74年に郡山市で開かれた「ワン・ステップ・フェスティバル」は、キャロルやサディスティック・ミカ・バンド、沢田も井上堯之バンドと登場して、ラストはオノ・ヨーコが飾った。この日本初のロックフェスティバルは、内田の共同プロデュースによるものだった。ロカビリーから始まる日本のポップスの現場を走り続ける彼は、80年代に入ると俳優としても存在感を発揮していくことになる。

 内田と沢田の交流が途切れることはなかった。73年に内田が悠木千帆を名乗っていた樹木希林と結婚した時は、新婦側の立会人は久世光彦で、新郎側の立会人が沢田、総括立会人はかまやつひろしという顔ぶれ(下写真)。久世は、内田と樹木希林が警察が駆けつけるほどの夫婦喧嘩を繰り返す度に自分が呼ばれて沢田が呼ばれないのは不公平ではないか、とぼやいた。

左から、沢田研二、かまやつひろし、内田裕也、樹木希林、久世光彦

内田に捧げた「湯屋さん」

 1983年に公開された大島渚監督の大作「戦場のメリークリスマス」は、第二次世界大戦時の日本統治下にあったジャワ島の日本軍捕虜収容所を描き、男同士の関係がフィーチャーされた映画である。内田は大島に頼まれて沢田を引き合わせたが、坂本龍一が演じた大尉の役を彼は断った。1年前から決まっているライブを映画のためにとりやめると500人のスタッフが生活に困る、なんとか撮影スケジュールを変えてもらえないかという沢田の頼みを、大島が蹴ったからだ。『俺は最低な奴さ』で、内田は沢田を礼賛する。

〈沢田は偉いやつだよ。「戦場のメリークリスマス」ね、あいつ断ったんだよ。あのときのデヴィッド・ボウイと沢田研二って、あれ以外ないキャスティングなのよ、わかんだろ。両方ともキラキラして、キラキラ星だよ、わかる? あの当時、沢田はいまのキムタクの10倍くらい人気あるんだからね〉

「芸能界史上最大の不倫」と騒がれた沢田と田中裕子が、1989年に出雲大社で結婚式を挙げた時、披露宴に出席した内田は、殺到する150人の取材陣に向かって「いい式でした」と丁寧にコメントしている。沢田のこととなると、自ずと内田の最も純粋で、良質な部分が迸るのだ。樹木希林は、91年にNHK衛星放送で放送された「沢田研二スペシャル」で、「沢田は神に選ばれた人間なんだ、と内田裕也がよく言っていました」と、語った。

 韓国の映画やドラマには、男同士の愛や絆を描いた作品が多い。そこでは、男にしか使えないヒョン(兄貴)という呼び方が飛び交う。「愛の不時着」のヒョンビンは亡き兄を「愛する人」と呼び、兄を思って「ヒョン」と泣いたけれど、血縁関係にない年下の男性が年上の男性をヒョンと呼ぶ時、2人の間には揺るぎない信頼と愛情が生まれている。それはヤクザ映画に限ったことではない。

 友情に篤い沢田にとって、自分を見つけてくれ、常に愛情をかけてくれた内田は、かけがえのないヒョンだった。2009年に渋谷で開かれた2人のライブ「きめてやる今夜 内田裕也 VS 沢田研二」のアンコールで、沢田は内田に向かって、「あなたがいなかったら、今の僕はいません。奇跡です!」と叫んだ。

 タイガース解散後、ソロになったばかりの頃に出た沢田のアルバム「JULIEⅣ〜今 僕は倖せです」に収録された13曲は、すべて彼の作詞・作曲によるものである。その中の1曲、内田に捧げた「湯屋さん」に、こんな歌詞があった。

 ロックンロールなゆうやちゃん

 短気は損気ゆうやちゃん

 僕は好きだよ

 怒っちゃだめだ

 ゆうやちゃん

 2019年3月、内田が亡くなった時、青山葬儀所で開かれたお別れの会に沢田の姿はなかった。誰に参列を求められても、「僕は僕のやり方がありますから」と拒んだ沢田は、その年の11月、東京国際フォーラムでのコンサートで何も語らずに「君をのせて」と「哀しきチェイサー」を歌った。

(文中敬称略/つづく)

source : 週刊文春 2021年4月22日号

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