「僕はね、風のように逝くからさ」
NHK教育テレビ(現、Eテレ)「できるかな」(1970~1990)の“ノッポさん”で知られる高見嘉明氏(享年88)は、数年前から周囲にこう口にしていたという。日本の高度成長期からバブル期にかけ、常に視聴世代のちびっ子たちを魅了し続けた高見氏。心不全で他界したのは、昨年9月10日のことだった。
所属事務所「はっとふる」代表の古家貴代美氏が明かす。
「生前、高見さんは、もし亡くなったら葬儀は派手にしないで、公表も半年以上経ってからにして欲しいと希望していました。世間にお知らせした5月10日は、高見さんの誕生日にあたる日。ミーハーなことが嫌いな高見さんが珍しく嬉しそうに話していたのが、尊敬するハリウッドのミュージカルスター、フレッド・アステア(1899~1987)と同じ誕生日だったこと。若い頃にタップダンスを学んだのも、彼のファンだったからでした」
高見氏を見守り続けた2人の存在
高見氏は戦前の1934年、京都市の太秦で生まれた。父は俳優、マジシャン、バンドマスターなど、転身を繰り返した多才多芸な美男役者。相撲茶屋を営む家の三女だった母と駆け落ちし、誕生した第四子が高見氏だった。母が実家から勘当を解かれると、一家は東京の現・墨田区向島に転居。高見氏が4歳の時である。その幼少期、「子どもだから」と周囲の大人が取り合ってくれなかった苦い思い出を、高見氏は鮮明に記憶していた。
「大人を“大人ども”と言わないように、高見さんは『子ども』のことを必ず“小さい人”と呼んで、対等に接してきました。ご自身の体験を通じて、子どもは、思っている以上に賢く、大人の世界を観察して理解しているものだと考えているんです」(同前)
やがて太平洋戦争が始まり、戦火が激しくなった小学4年の時、一家は岐阜県笠松町に疎開。終戦後も、高見氏が高校の途中まで美濃の地に留まった。小さい頃、小説家になるのが夢だったという高見氏は、疎開先で密かに恋心を抱いた同級生の女の子の家まで、よく本を借りに行ったという。その女の子の父は早稲田大学文学部教授。家には立派な書庫があった。夏目漱石や谷崎潤一郎、ドストエフスキーら文豪の作品を読み漁るうち、あまりの名文に自信を無くし、作家の夢は断念したという。フレッド・アステアの主演映画と出会い、弁当を持って映画館に通い詰めたのも、この頃だった。
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source : 週刊文春