だがそれは「応援する日本人の気持ち」であって、自国の旗が上がらない2選手への「どういう気持ちだろうね」という問いの答えになってはいない。宮藤官九郎ほどの脚本家がそれに気が付かないわけがない。分かっていてもそれ以上は書きようがない。虚構の脚本として、金栗四三に日本の軍国主義への批判を語らせることはできても、それは別の意味で戦前の日本人を美化した歴史修正主義になってしまう。現実に、当時の日本人たちにそんな問題意識はほとんどなかったのだから。
多くのドラマ通が激賞するように、宮藤官九郎が『いだてん』で見せた脚本技術は間違いなく日本最高峰のものだ。その手腕をもってしても、現実に存在した歴史の矛盾だけは覆い隠しようがない。脚本手腕でそれを覆い隠せば、覆い隠したこと自体が不誠実と非難される、それが近現代史を描くことの困難さである。だからこそ戦前史は大河ドラマのパンドラの箱なのだが、宮藤官九郎はあえてそれを開けることを選んだ。
満州で迎える敗戦の場面に、映り込む殴り書きの意味
そしてあの台風の翌日に放送された第39回、『懐かしの満州』で物語はひとつのクライマックスを迎えた。そこで描かれるのは、森山未來が演じる若き日の古今亭志ん生が満州で迎える敗戦によって崩壊する満州の日本人社会の姿である。
「日本が負けたとたん中国人があっという間に豹変して、日本人がやっていたところはどこもしっちゃかめっちゃかにされちまった」という志ん生の語りの中、路上で歓喜する中国人たち、追われるように逃げ惑う若き志ん生の姿が描かれる。「ここから仕返しが始まるとですね」という仲野太賀演じる小松勝の言葉通り、報復で破壊され「日本鬼子」「東洋鬼」と殴り書かれた演芸場で、それでも集まった日本人たちに森山未來演じる若き日の志ん生は「富久」を演じる。
中国人たちの日本への恨みを書いた殴り書きの前で、打ちのめされた日本人たちが志ん生の落語に笑う姿を描くことは、肯定なのか否定なのか。日本の大衆を被害者としてのみ描きたいのなら、日本鬼子や東洋鬼という殴り書きを背景の壁に映す必要はない。加害者としてのみ描くのなら、その殴り書きを背景に志ん生の落語に見せる日本人たちの笑顔など論外だろう。それは被害者でもあり加害者でもある日本の大衆を描く象徴的なシーンになっていた。
『いだてん』が落語の形式を取らねばならなかった理由
『東京オリムピック噺』というサブタイトルからもわかるように、『いだてん』は志ん生の語る創作落語の形式を取って語られる物語であり、森山未來の志ん生はいわば時代の目撃者であり語り手である。
『いだてん』の落語パートは、必ずしもすべての視聴者にウケが良かったわけではない。第一話で北野武演じる晩年の志ん生が自ら「どうもこの私と五輪ていうんですか、このやろうとは相性がよくなくて」と語るように、それはある時にはまるで物語の話の腰を折るように、ドラマツルギーの加速にブレーキをかけ、火に水をさすように挿入された。でもたぶん、宮藤官九郎が第39回を「最も描きたかった」と語るように、落語こそが『いだてん』の本質だったのだと思う。