文春オンライン

ラグビー日本代表戦の裏の『いだてん』 “地雷の山”である近現代史を語る上で、なぜ「落語」が必要だったのか

CDB

2019/10/27
note

 小劇場演劇出身の宮藤官九郎はおそらく、落語の話法と自分の脚本の話法を、同じサブカルチャーの文脈に重ねている。『いだてん』は、サブカルチャーの文体で書かれた戦前史、近現代史なのだ。

 宮藤官九郎は、ラジオで本人が語るところによれば、今年二度胃カメラを飲み、医者からインターネットのエゴサーチを禁じられるほどのストレスを抱えながら、風車に挑むドン・キホーテのように、血みどろの近現代史を自分の言葉で語り直すことに挑んだのだと思う。

 それは英雄譚的感動で描かれる歴史を避け、片手で山のようにそびえたつ歴史のカタルシスを築きながら、もう片方の手で落語によってそれを崩し、平坦にならすようなサブカルチャーの話法だった。それは政治的に保守からもリベラルからも、もしかしたら老若男女すべての視聴者にすら双手を挙げて肯定されるものにはなりえない。しかし、宮藤官九郎が『いだてん』で落語を用いて対決しようとしたものは、そうした『双手を上げて肯定される歴史』そのものだったのだと思う。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

 『いだてん』と同時代、幻の東京五輪が開催されるはずだった1940年に死んだユダヤ人ヴァルター・ベンヤミンが書き残した『歴史哲学テーゼ』と題された文章の中で、彼は前衛画家パウル・クレーの絵を「歴史の天使」なるものになぞらえ、未来に背中を向けて過去を再構築しようと試みる天使像を描いた。宮藤官九郎が『いだてん』の中で描いた古今亭志ん生は、いわばこの歴史の天使のような目撃者であり、語り部なのだと思う。

「ソ連兵が来てからはひでえもんだったよ、女はみんな連れていかれた、逆らえば自動小銃でパンパンとくる、沖縄で米兵が、もっと言やあ中国で日本人がさんざっぱらやってきたことだが…」という志ん生の語りには、戦前と戦後、加害と被害、日本と他国の暴力が時系列や因果を越え並列に入り混じっている。人が死んで人が死んで、それからまた人が死んだと数えるかのような乾いた声で北野武が死者たちを語る時、僕等であれば事件の連鎖を眺めるところに、落語家はただカタストロフのみを見る。それは宮藤官九郎というサブカルチャーの申し子のような脚本家が近現代史という怪物に対して返した、ひとつの答えなのだと思う。

80年前に覆った津波はスポーツも、サブカルチャーも飲み込んだ

 宮藤官九郎が『あまちゃん』の舞台に設定した岩手県三陸海岸沿いに、大津浪記念碑と呼ばれる石碑がある。それは1933年(昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後に建てられた「津波はこの高さまで来る、ここより下に家を建ててはならない」という警告文が刻まれた石碑だ。それは2011年3月11日の東日本大震災において、80年の時を越えあと50mまで迫った津波から住民を守った。

『いだてん』で宮藤官九郎が描こうとしたものは、80年前に日本を覆った歴史の津波の高さなのだと思う。それは政治はもちろん、スポーツも、サブカルチャーも、すべてを飲み込んだ。『いだてん』の中で女性選手を通して描かれたフェミニズムの萌芽は最もSNSの支持を強く受けたシークエンスだったが、その後の歴史では婦人運動さえも婦人の政治的権利獲得のために戦争協力に飲みこまれていく。