しかし、(1)のような番組作りの問題点を裁判所が認める状況になったとしても、(2)の木村さんの死そのものについて、番組制作者に責任を問うことは、よほどの事情がないと容易ではないと考えます。
なぜなら、番組が煽ることでSNSで誹謗中傷がなされることまでは予想できる流れだったとしても、今明らかになっている事実を前提とする限り、やはり殆どの人にとって、それがゆえに木村さんが命を落とすという結果は、想定の域を超えていたと思われるためです。
出演者は、本当に割の合う取引をしているのか?
海外でのケースを見ていると、多くの場合、出演者は契約書にサインしたことで、番組に登場する代わりにプライバシーなどの権利を放棄し、結果、裁判に敗訴しています。出演者にとって、番組への出演により得られるメリットは魅力的には違いありませんが、大企業である番組制作側に対して、本当に割の合う取引をしているのかといえば、そうではないように見えます。
番組編成の自由は重要です。しかし、視聴者の下世話な興味に合わせて誇張された虚構の「リアリティ」のために、出演者から次の死者が出てしまうような事態は避けなければなりません。
木村さんの死に対して、番組側の法的責任を問うことは難しくとも、放送事業者として、また出演者に対して圧倒的な力を持つ事業者として問われるべき道義的責任はあろうかと思います。
また、今回のような事件は、番組制作者が予見すべき事情の範囲が広がる方向に影響する可能性があります。
第二の犠牲者をださないために変わるべきなのは、番組制作者なのか、視聴者なのか、はたまたSNSの仕組みなのか。木村さんの死は、我々に多くのことを問いかけています。