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父親が急逝したとき、奨励会仲間からの励ましの言葉は「将棋を指そう」だった

父親が急逝したとき、奨励会仲間からの励ましの言葉は「将棋を指そう」だった

加藤桃子女流三段インタビュー #1

2021/09/08
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私がお腹にいるとき、せっせと「次の一手」問題集を

――ご両親は将棋を通じて知り合ったのでしょうか。

加藤 父は奨励会を退会後、大学院で学んで静岡の藤枝明誠高校の教員になりました。棋道部(将棋部)の顧問として、生徒さんを東京の女流アマ名人戦に引率したときに母と出会いました。4局中2局が母と生徒さんの対戦。その場で自己紹介をして、父は安恵照剛八段門下の元奨励会員、母は安恵八段の師匠でもある高柳敏夫名誉九段が主宰する柳門会で将棋を習っていることがわかって話が弾んだそうです。一目ぼれした父はその後、母にラブレターを送って猛アタック。結婚することになり、静岡県榛原町(現在の牧之原市)で暮らし始め私が生まれました。

――加藤先生は、ご両親に将来はプロになれるよう期待されていたのでしょうか。

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加藤 強要されたわけではなく、母は私に好きな道を選んで欲しかったそうです。幼稚園の頃から習い事をたくさんさせてもらいました。最初に始めたのがピアノ。しかし、私は練習が好きではなく、楽譜の隅に絵を描いていました。それを見た母は、「絵が好きなら習ってみれば」と絵画教室に。バレエに体操、サッカーも習ったことがあります。将棋と並行していろいろやっていました。とはいえ、母は私がお腹にいるとき、せっせと「次の一手」問題集に取り組んでいたそうですから、将棋の道に進ませたいという期待はあったのかもしれません。

将棋を始めたころ(写真提供:加藤桃子女流三段)

だんだんと将棋中心の生活に

――お母さまは「将棋胎教」をなさっていたわけですね。将棋と他の習い事の予定がかぶったりしませんでしたか。

加藤 将棋が強くなって、父の高校の棋道部の活動に参加できるようになると、バレエと曜日が重なったら、迷った末バレエをやめると決めたり、少しずつ習い事は減っていきました。日曜日は近隣の支部など、あちこちの将棋大会に出るようになりました。

 よく東京に出て、道場にも行っていました。母の実家が東京にあって出やすかったのです。将棋連盟、三軒茶屋将棋倶楽部、御徒町将棋センターに通いました。三軒茶屋将棋倶楽部では宮田利男先生(八段)に駒落ちで教えていただきました。母が独身の頃、宮田先生にも教わっていて、私が赤ちゃんの時には抱っこしてもらったこともあるそうです。御徒町将棋センターは、東京の大会で知り合った相川春香ちゃん(女流初段)に誘われました。アマ強豪に教えていただきありがたかった。席主や受付の方々も可愛がってくださり、社団戦にも御徒町将棋センターのチームで出ていました。高学年では夏休みの大半を東京で過ごすように。小6の奨励会受験前からは、蒲田将棋クラブにお世話になりました。

――将棋以外にもいろいろやったけれど、だんだんと将棋中心の生活になっていったわけですね。お父様は将棋に関してはすごく厳しかったとうかがったのですが……。

加藤 父は熱血タイプで高校での指導は厳しかったですね。褒めるところは褒めるのですが。部活の最後に反省タイムがあって、そこには重い雰囲気が漂い、「父の指導を受ける高校生は大変だな」なんて思っていました(笑)。全国大会で何度も優勝して、熱血指導の成果はあったのです。高校生と私の対局では感想戦に入って、生徒さんの指し手はもちろん「桃子のこの手が悪かった」とかたくさん指摘してもらいましたね。