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電話に出た三池崇史監督は…

――大部屋俳優から脱出するキッカケは? 

「大部屋で悪い役をやっていた頃、Vシネマがちょうど上り調子の時だった。京都だと時代劇しかないから、ああいうヤクザものに出て、ちょっとでもチャンスを得たいなと思っていたんです。すると、偶然深夜に『ミナミの帝王』というシリーズの一作が再放送されていて、番組の最後にオーディションのお知らせというのが出ていた。それで、すぐに問い合わせたら、ちょっと変わったオーディションで、1人1万円払ってオーディションをする、と。出費の痛手はあったけれど、それでも喜んで行きました。

 大阪の心斎橋でオーディションがあって、そこに行ったら、3時間くらい待たされた。350人ほど来ていたそうです。僕の順番が来て、出身地や名前を言って終わったんですけど、結果の連絡が全然来ない。居ても立っても居られなくて問い合わせをしたのですが、たらい回しにされて。最後、大阪の会社に尋ねたら、その時のプロデューサーが電話に出た。『ああそうか、次は京都で作品撮るから行ってみ』と言われ、『ミナミの帝王』はどうなったんやと思いながら行ったら、それが三池(崇史)さんの作品でした。三池さんから『土平さん、「ミナミの帝王」の時におられましたね。あれだけ人数いたけど、これだけすごいキャラクターはいいひんなと思っていました』と言って下さったんです」

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――実際に三池さんとお仕事を?

「1996年に『新 第三の極道』という中条きよしさんが主演するシリーズですごい異常な人間をやらせてもらえたんです。神戸の震災で半壊したビルの中で飼われている犬みたいな人物にしようということで、ワンシーンしかでないんですけど、涎をだらだら垂らしていて、中条さんのところから人質で取ってきた女の人をそのビルの中で追っかけ回すんです。ポイントは涎やなと思って、僕の一番下の子がハイハイをしていて、涎をたらーっとたらしよるんですよ。それを再現しようと思って、コーヒーシロップを水で少し薄めたら、赤ちゃんの涎と一緒やと思って、それを容器に入れて撮影現場に持っていった。そしたら、芝居を見た三池さんが喜んでくれて。それが自分としても『これこそ俳優の仕事やな!』と納得した日でしたね」

――上京したのは、30歳、1996年の時でした。

「三池さんの作品に出ながらも、仕出しの仕事を毎日続けていて。もう何の伝手が無くても東京へ行こうと思っていたんです。そうしないと、40、50歳になった時、後悔してしまう。で、三池さん、東京のあの制作会社にいると言っていたなと思って、電話したんです。別に制作会社に監督の三池さんも普段いるわけじゃないんですが、たまたま出てくれた。すると、『明日から1本撮るんで、そこで役なんか作りますわ』と。それで松竹を飛び出したんです。まあそのあと松竹から総スカンをくらいました(笑)」

――次第に、映画やドラマへの出演が増えていきます。

「東京でも4、5人、『アイツ、おもろいな』と言ってくれる人が出てきた。そのうちの1人が引き合わせてくれたのが、猿岩石の2人が主演した映画『一生、遊んで暮らしたい』(1998年)の金澤克次監督でした。ちょうど猿岩石の2人が旅から帰ってきて超人気の時でしたが、僕もメインキャストの1人に選ばれた。

 公開初日は朝5時から新宿駅から新宿東映までずらっと並んでいるくらいの人が入りましたね。有吉(弘行)君はいまだに『ドンペイや』と言ってくれたりします(笑)。それが、ちょうど奥さんと『3年以内に結果を出す』と約束してから、ちょうど2年7、8カ月目くらいだった。東京でこの役をやるくらいだから、一応合格ちゃうかな、と。でも、『やっぱり物事は10年やらないと本当の答えは出ないと思うからもうちょっと続けるわ』となって、役者を続けることになりました」