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《追悼》桂由美さんが銀座で流した涙の理由〈独立を決心し「女性自身」特派記者として海外に…〉

2024/04/30
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 当時は1ドル360円時代。費用は、母が私の結婚費用にと貯金していたお金を使わせてもらいました。費用も大変ですが、海外に行くビザを取るのも難しい時代です。

 そこで、海外のウエディング事情を取材するということで「女性自身」の特派記者として報道ビザで旅立ちました。この海外視察でオードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、グレース・ケリーなど、今では考えられないような海外の名だたるセレブリティの方々に直接インタビューをすることもできました。

 視察として旧ソ連、ヨーロッパ、アメリカなど約20カ国を約1年かけて巡り、海外の結婚式事情を見るうちに日本にも必ず西洋風の結婚式が流行る時が来るに違いないとますます確信を強めました。

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 最初のお店「桂由美ブライダルサロン」を赤坂にオープンしたのは1964年の12月末です。ちょうどTBSが赤坂に立派な社屋を建てた頃で、その真ん前にあったビルの2階が目に入りました。

 TBSの前なら芸能人も見に来るし、メディアの話題にもなりやすいだろうと思ったのです。

迎賓館赤坂離宮で初のファッションショー ©共同通信社

お客さまが30人だけ

 最初はビルを借りるつもりでしたが、母が「収入もまだ見込めないのに、借りたら必ず家賃で苦労する」と大反対。どうせなら銀行からお金を借りて買ったほうがいいというので、17坪くらいの小さな土地を購入し、小さなビルを建て返済していくことにしました。

 のちに、このビルを売って、今の社屋がある乃木坂の土地を買う資金となりましたので母の助言はありがたかったですね。

 とはいえ、赤坂の店をオープンした年は、1年で、たった30人の売上げしかありませんでした。

 実は、注文自体は100名近く入っていたのですが、途中でキャンセルになってしまうのです。

 なぜかというと、当時結婚式についての発言権をいちばん持っていた花婿さんのお母様が「やっぱり正統的な和装で」と反対されて、結局キャンセルになるんです。

 お店の4人の従業員に給与を出せば当然赤字ですから、私は月・水・金の週3日は、午前・午後・夜間と母の学校でクラスを受け持ち、10年間はその給与をすべてお店につぎ込んでいました。お金を節約するために、夜は、店の2階に寝泊まりしていたほどです。

 当時はとにかく無我夢中でしたが、世界中を視察しながらわかっていたことがありました。国の経済が成長していくと、どこの国でも、一番最初に贅沢になるのは結婚式なんです。親は「自分の時にはできなかったことを娘や息子にさせたい」と思うのでしょう。

本記事の全文は『文藝春秋 電子版』に掲載されています(桂由美「生涯ブライダルひと筋の挑戦」)。

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