中居正広氏の女性とのトラブルが端緒となり、フジテレビの会社としてのあり方がクローズアップされている。フジテレビの最高権力者とされるフジサンケイグループ代表・日枝久氏は「長期政権」をなぜ築けたのか。

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「こいつはおれを裏切った」

 巨大ダムに開いた小さな穴が、一気に決壊を引き起こした。

 フジサンケイグループは、フジテレビを中心にラジオ、新聞、不動産など多くの事業体を抱える異色のメディア集団だ。その盟主だった鹿内家3代目の議長・鹿内宏明を日枝が追放したクーデターを第1幕(1992年)、買収騒動に曝されたライブドア事件を第2幕(2005年)とすると、この空前の経営危機は第3幕となり、ついに主役が退場を迫られている。

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日枝久氏 Ⓒ文藝春秋

 クーデターから数えれば33年にもなる日枝の長期政権は、どのように成立、維持されてきたのだろうか。若かりし日を知る同期の1人は日枝を「イデオロギーがなく融通無碍、一方でパワーポリティクス(力の統治)に強い関心があり、組織のどこを押さえればいいかを把握する力は抜きんでていた」と評する。

 財界出身で初期の社長、鹿内信隆(初代議長)の下で1966年に労働組合ができたとき、日枝も若手として参加し、激しい組合潰しを経験、脱落者が相次ぐ姿を目の当たりにした。日枝は2004年、筆者のインタビューにこう語っている。

「(組合を辞めた)こいつはおれを裏切ったなと。あれだけ決めておいたのにと。僕の中にも、そういういろんな人のイメージができる」

 厳しさに直面したときにあらわれる人の本性を見て、眼力の糧にしたのだろう。信用できる仲間を長年かけて周囲に作っていった。その1人がフジ・メディア・ホールディングス常勤監査役を務め、人事部門に目を光らせる腹心の尾上規喜だ。

港浩一社長と嘉納修治会長は引責辞任 Ⓒ時事通信社

 日枝は配属された各部署で、大口スポンサー開拓(営業部)、視聴率向上(編成部)などに力を発揮。急死した2代目議長・鹿内春雄の遺志もあり、1988年、50歳の若さでフジテレビ社長に上り詰めた。

 ただ、新たに議長となった鹿内宏明が志向する合理的経営の下で、日枝は“血判状”を交わした仲間と92年、クーデターを起こす。先の同期が言う。