ハマコー金脈のヤバいカネ

 疑惑の発端は1980年3月6日。戦後最大の疑獄事件と言われたロッキード事件の公判で、小佐野賢治被告がロッキード社から受け取った資金が、ハマコーこと浜田幸一衆院議員のラスベガスのカジノホテルでの約4億6000万円の賭博の損失に充てられた経緯が明らかになったことだった。

ハマコーこと浜田幸一氏 ©文藝春秋

 浜田はこの件で4月10日に議員辞職に追い込まれたが、その後も国会では浜田のカネを巡る疑惑追及が続いた。1億円拾得事件の当日も、浜田が関わったとされる千葉県富津市金谷の通称、砲台山の元国有地を巡る土地転がしの件について共産党の衆院議員、井上敦から質問が出ていた。田中角栄の金脈問題を追っていたジャーナリストの立花隆が、「『九億円の土地が一日で十六億円になった』怪」と『週刊現代』(1975年6月12日号)でレポートした土地取引の問題である。

 わずか一日の間に、東産業から富洋物産、輝伸興産を経て、16億円で田中のファミリー企業である新星企業が取得しており、その4カ月後には田中の盟友だった政商、小佐野賢治の日本電建に渡っている。この一連の取引で中継役を務め、約3億5000万円の利益を上げた輝伸興産の社長が浜田だった。その後、社長は浜田から木倉に移っており、二人の関係について井上は質問のなかで、こう言及している。

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「浜田幸一元代議士とこの木倉功氏との関係、これについては御存じロッキード商戦の夜の舞台となったそのエル・モロッコの社長自身が詳しく供述をされているわけであります。その幸(英二郎)社長の供述調書では、浜倉商事を設立し、エル・モロッコを開店する資金は、自宅を担保に入れて、銀行から融資をうけた以外は、木倉に出して貰いました。浜倉商事の設立当時の資本金も、木倉に出して貰いました。私を含めて株主は、いずれも自分のカネは出していません。木倉が出してくれたお金の内、5000万円は浜田先生が木倉に貸してくれたカネであることを後で聞いた記憶があります。云々とあって、木倉が不動産の取引で、浜倉商事に儲けさせてくれると言っていたことがありました。浜倉商事という名前は私がつけたものです。浜田先生と木倉の名前からとったのです。こういうように供述しておられる」

 赤坂の高級クラブ「エル・モロッコ」は、ロッキード社の元日本支社長のクラッターやジャパンPR社長の福田太郎、シグ片山などのロッキード事件関係者が通った店として知られていた。

 輝伸興産は当時、赤坂にある「エル・モロッコ」の事務所内に拠点を置いていたという。立花隆の『田中角栄研究全記録(上)』(講談社文庫)では、木倉の経歴はこう紹介されている。

〈昭和十八年生まれで、三十二歳。父親は第一肥料という会社を経営していて、藤山愛一郎氏を後援していた。それがきっかけで木倉功氏も政界人との付き合いがはじまったらしい。早大商学部卒業後、エルサルバドルに留学。帰国してから、輝伸興産を設立するまでは、浜田幸一代議士の私設秘書のような仕事をしていたという〉

 木倉の知人によれば、第一肥料は富山県出身の木倉純郎が設立した全国に販売網を持つ大会社で、純郎は富山から衆院選に出馬したこともあるという。

「かつては東京・中野に豪邸があり、藤山愛一郎の有力スポンサーとして“中野銀行”の異名をとったほどでした。功は四男にあたり、すぐ上の兄、誠は強豪校の岐阜商でキャッチャーとして活躍し、大学卒業後は第一肥料や叔父が営む木倉音楽事務所で働いたり、不動産業を手掛けていた。誠は馬主としても知られ、スーパークリークのオーナーでもあった」

 資産家一家に生まれたとはいえ、木倉功の30代とは思えない腹の据わった仕事師ぶりは、その特異な交友関係からも窺い知れた。加藤の妻、幸子が明かす。