「木倉さんは稲川会の石井さんとも親しい間柄でしたが、それとは別に山口組三代目の田岡一雄さんの長男、田岡満さんとは、幼なじみのように育ったそうで仲が良かった。そこに旧川崎財閥の川崎雄厚さん(のちの川崎定徳社長)が加わって一つのグループのような感じでした。主人と木倉さんとは、久保田家石材を通じて知り合いました」

名乗り出られなかった本当の理由

 明治創業の久保田家石材商店は、二代目の久保田茂太郎が、お墓の形状などを見て吉凶を判断する墓相学をベースに『世にも不思議なお墓の物語』(筆名は久保田茂多呂)を著し、そのタイトルを大々的に謳った広告宣伝で知られていた。のちに「六星占術」で有名な細木数子ともビジネスで繫がりを持つ。加藤夫妻は、たまたま東京支社を訪ねた時、売りに出されていた高尾のお墓を買ったことで縁ができたという。そこから京都在住の久保田茂太郎らは加藤にとって大きなカネを動かす有力顧客となった。

 加藤は、自らが相場を通じて最も儲けさせたのは、久保田家石材グループだったと言って憚らなかった。その久保田家石材に墓石事業や霊園開発のノウハウを学ぶ修行の一環で入社し、役員を務めていたのが木倉だった。一億円拾得事件で世の中が騒然となるなか、木倉は加藤にこう告げた。

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「落とし主だと名乗り出て、私の名前が出れば、ハマコーさんの名前も出てしまう。そうなると逆に加藤さんの評判を落としてしまうことになる。だから返して貰わなくていい」

 確かにとても名乗り出られる状況ではなかった。だが、宙に浮いた1億円をそのままにしておく訳にもいかず、加藤はその年のうちに3000万円、3000万円、4000万円と三回に分けて木倉に渡し、全額を返済したという。幸子が後日談を明かす。

写真はイメージ ©︎deyuu1244/イメージマート

「石井さんが失くした1億円は、久保田家石材側が補填したはずでした。ただ、私たちの返済金は、実際には久保田家石材側には戻っていなかったようです。どういう事情があったのか。それは私にも分かりません。1億円の件があってから、私も事ある毎に『あれは加藤さんのおカネでしょ?』と聞かれましたが、その度に否定していました。誠備事件で検察側から任意の事情聴取を受けた際にも、検事さんから『あれはどういうことですか?』と尋ねられましたが、『主人は、俺は落とすようなバカなことはしない。そこまで耄碌していないと言っていましたよ』と説明しました」

 木倉は、その後も加藤の仕手戦に深く関わり、加藤の晩年まで付き合いを続けた。会うのは決まって旧ホテルオークラにあった「バーハイランダー」だったという。木倉に改めて取材を申し入れたが、「僕の名前はちょいちょい出てくると思いますけど、加藤さんとはそんなに深い付き合いじゃないです。あの人は秘密主義だから、会ってくれないんですよ。お金儲けのことだから、秘密にしなきゃしょうがないんですけどね。僕は(株投資の収支は)トントンくらいかな」と煙に巻き、それ以上は何も語ろうとはしなかった。

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