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新浪 剛史
2017/02/14

新浪剛史「ビジネスマンの土台を作った“逆Tの字”理論」

会社で生き抜くためにすべきこと――新浪流サバイバルビジネス術 #1

「逆Tの字になれ」

 20代後半、当時の上司から、私はこうアドバイスされました。

 自分の強い専門分野をタテとして、ヨコは視野を拡げるために、ネットワークをつくれ、と。その言葉を胸に、マクロ経済や為替を勉強しタテを強化し、社外の勉強会に参加してヨコのネットワークを作りました。そしてタテの経験は社内で事業の成功につながり、ヨコの経験は後年、ローソンへの転進に導いてくれたのです――。

 三菱商事、ソデックス、ローソン、サントリー……。私はこれまで社会人になってから、1回の出向、2回の転職を経験してきました。商社、外食、小売り、製造業と様々な場所で仕事をし、違った仲間、環境のなかでゼロから関係を構築してきました。

 当時、転職を繰り返すのはマイナスイメージもありましたが、いまは違います。ただ、新しい環境に飛び込むときに躊躇し、勇気を持たなくてはならないことはきっと今だって同じでしょう。私もステージが変わるたびに、何度も悩み、失敗し、やり直してきました。

サントリー社長就任記者会見

 私の故郷である横浜は国際港があり、海外、とりわけアメリカに対する憧れを持ちながら育ちました。高校時代の志望は外交官でしたが、慶應義塾大学に入って、日本は海外との貿易で成り立っていると教えられるうちに、外交よりも貿易だと思うようになりました。アタッシュケースを持って世界を駆け巡る商社マンを夢見たのです。

 三菱商事を選んだのは、就職活動で社員食堂に連れて行かれたとき、活気があっていいと思ったからです。また、ビジネススクールへの留学制度があったことも魅力でした。大学在学中にスタンフォード大学に交換留学させてもらったこともあり、もう一度アメリカに戻りたいと思っていました。この会社なら雰囲気も良いし、颯爽と世界を駆け巡ることができるだろうと考えたのです。

部署のリストラで最年少で仕事を任され

 ところが、すぐに落胆しました。社内で一番儲かっていないセクションの一つの砂糖部に配属されたからです。

 社員寮では、先輩たちから「おまえのおかげでボーナスが減るんだ」と言われたこともありました。私が悪いわけじゃない。夢も持って入社したのに、なぜこんなところにいるんだ。そう思っていました。

 最初の仕事は国内に到着した船を滞船させないようにするデリバリー業務です。作業を急ぐために現場で荷役会社と交渉して、ちょっとした雨でも荷役をやってもらうよう催促する。そんな泥臭いことばかりやっていました。いつになったら海外に行けるのか。パスポートも必要ない。アタッシュケースを使ったこともない。商社マンのイメージとはかけ離れた仕事をしていました。

 砂糖部には十数人の課員がいたのですが、配属から2年で一気に半分にリストラされました。砂糖部では通常ならデリバリー業務などを5年ほど担当し、その後、ロンドンに赴任。そこで5年くらいやって、次はニューヨークと決まっていました。

 しかし、このリストラのおかげで、本来なら入社5年目でやらせてもらえる仕事を3年目で任されたことです。最年少でしたが、責任ある仕事を任せられるようになりました。

「井の中の蛙になるな」上司のアドバイスで勉強

 当時の上司とは、現状を改革するためにどうすればいいのか、よく議論しました。儲かっている部署であれば、上からタテに指示がきて、決められた路線の中で、決められた仕事をやっていくものですが、砂糖部では決められた仕事をやっているだけでは、部の存続自体が危うい。危機感で一杯でした。

 当時の上司はマサチューセッツ工科大学(MIT)ビジネススクールの出身。視座を高く持った方で、のちに常務にまでなられました。

1月はダボス会議で世界のビジネスマン、政治家たちと交友  ©榎本麻美/文藝春秋

 今思うと、ビジネスマン人生を通じて、私は良い上司に恵まれました。今でも覚えているのは25歳のときに、その上司から「井の中の蛙になるな」と言われたことです。社内で酒を飲むのは大いに結構。しかし週2回なら、1回にする。そこで得られた時間で勉強しろとアドバイスされました。マクロ経済や為替などを勉強して、世の中がどうなっているのか考える。そうした高い視座を持って、現状をどう解決すればいいのか考えるべきだと教えられたのです。

もっと自分に力をつけるには?

 朝早くから集まって、先輩たちとも一緒に議論をしました。ケーススタディをやったり、違う視点で物事を見たりするように努力しました。

 友人の紹介で社外の勉強会にも参加するようになりました。そのとき入った勉強会は留学経験者の集まり。その中の筆頭格が現在、慶應義塾大学名誉教授である竹中平蔵さんです。ほかにも自民党政調会長の茂木敏充さん、アジア開発銀行総裁の中尾武彦さんらがいました。全員で20人くらいでした。

 実は、その勉強会のスポンサーがダイエー創業者の故中内功(注:功のつくりは刀)さんでした。私はのちにローソン社長(創業当初はダイエー子会社)になりますが、実は中内さんとは25歳のときから個人的に面識があり、その後も連絡を取り合っていたのです。

 優秀な方々と議論することは、とても刺激になりました。もっと自分は力をつけなければいけない。そう思うようになりました。

 当時、その上司からは「逆Tの字になれ」とアドバイスされました。自分の強い専門分野をタテとして、ヨコは視野を拡げるために、ネットワークをつくる。そのため、私はヨコを社外の勉強会に求め、タテは砂糖部ならば相場に知見を持つべきだと考え、マクロ経済や為替を本格的に勉強し始めたのです。

 当時は為替が変動相場制に変わっていった時期です。先輩たちは砂糖の相場のことはわかっていても、為替のことは詳しく知りません。そこで為替を徹底的に勉強しました。テクニカルな面については、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行、当時は外為専門銀行としては国内唯一)の友人に聞いたり、社内同期の山崎元(現経済評論家)さんに毎日のように電話したりして教えてもらっていました。山崎さんとはそれ以来の親友です。

お客様のハートにいかに入り込むか

 そして、勉強したことをもとに独自の為替レポートをつくって、中国政府に毎月のように営業をかけていました。私は83年に初めて上海、北京に行ったのですが、それは私の為替レポートが評価されて、中国側が取引に関心を持ってくれたからです。

 なぜか。中国の通貨である元は当然、国際通貨ではありませんでした。砂糖を買うには、まずドルを買わなければなりません。しかし当時、ワールドトレーダーたちに砂糖相場のレポートは送られてきても、為替のレポートはなかった。実は私のレポートを中国側のナンバー2が毎週読んで感心してくれていたそうです。それが取引を始めるきっかけとなったのです。

 私が、ニーズがあるだろうと思ってやり続けたことは功を奏しました。結果として、三菱商事砂糖部の歴史上、中国との取引で初めて儲けることができたのです。ビジネスでは相手がほしいと思うことを見つけてくることが重要です。競争相手と違う視点やネタを持って、お客様のハートにいかに入り込んでいくのか。そんなことを学ぶことができた時代でした。

聞き手:國貞 文隆(ジャーナリスト)

新浪 剛史 サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長

1959年横浜市生まれ。81年三菱商事入社。91年ハーバード大学経営大学院修了(MBA取得)。95年ソデックスコーポレーション(現LEOC)代表取締役。2000年ローソンプロジェクト統括室長兼外食事業室長。02年ローソン代表取締役社長。14年よりサントリーホールディングス株式会社代表取締役社長。

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