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ご存知ですか? 3月15日はロマノフ王朝滅亡の日です

100年前のきょう、300年王朝は幕を閉じた

2017/03/15

genre : ニュース, 国際

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  いまから100年前のきょう、1917年3月15日、ロシア皇帝・ニコライ2世は自らの退位と、皇太子の廃位を宣した(当時のロシア暦では3月2日)。ニコライ2世は弟のミハイル大公に譲位したが、大公は辞退、約300年間続いたロマノフ王朝はここに終焉を迎える。

 王朝崩壊へといたったこの革命は「2月革命」と呼ばれる。その発端は1週間前、3月8日(ロシア暦では2月23日)に首都ペテログラード(現サンクト・ペテルブルグ)で女工たちがパンを求めて起こしたデモだった。これがたちまち街中の労働者に広がり、さらには将校に反旗をひるがえした兵士も加わって、政府機関を占拠する事態にまで発展した。

ニコライ2世 ©getty

 この危機を受けて、当時のロシアの国会「ドゥーマ」に設置された臨時委員会は、13日には全国家権力を掌握したと宣言する。一方、首都の労働者や兵士は、その前日夜までに代議員評議会「ソビエト」を発足させていた。両者は革命後の国家のあり方をめぐり対立する。ドゥーマ臨時委員会の大半は、革命後、ニコライ2世から皇太子に譲位させたうえで王朝を残し、立憲君主制をめざしていた。これに対しソビエト側は、王朝を廃止し、共和制への即時移行を訴える。

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 14日には、ドゥーマ議長のロジャンコが、ニコライ2世に譲位について直談判しようとするも、ソビエト側に阻止される。このとき皇帝はロジャンコに首相を任せるばかりか、それまで拒んできた責任内閣制も認め、最大限の譲歩をするつもりだった。だが、もはやそんなことでは事態は収まらなくなっていた。

 自らの退位が避けられないと知るや、ニコライ2世は、皇太子の廃位とミハイル大公への譲位を決断する。皇帝の宣を伝えられたドゥーマ臨時委員会の面々は、立憲君主制の実現をついに断念した。この間、ドゥーマ臨時委員会と、「憲法制定会議の招集」を強く求めるソビエトとのあいだで交渉が妥結、15日夜には臨時政府が発足する。

 2月革命の背景には、1914年からの第一次世界大戦が、物的人的資源のすべてを注ぎこむ総力戦となり、労働者や農民に大きな負担がのしかかっていたことがあげられる。そこへ来て物資輸送の麻痺から、都市部の食糧事情が悪化し、女工たちのデモが起こった。臨時政府はまがりなりにも西欧諸国並みの民主化をめざしながら、発足から1ヵ月もすると危機に直面する。その原因もまた、西欧諸国との関係から戦争を継続せざるをえず、国民の不満を買ったためだ。このとき亡命先のスイスから帰国し、またたく間に支持を集めていったのが、ボリシェビキ(急進的な社会主義者の組織)の指導者レーニンだった。

レーニン ©getty
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