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【ヤクルト】真の復活なるか 由規が懸命に集め続けた「お守り」

文春野球コラム ペナントレース2017

2017/05/20

9年前、戸田グラウンドで由規と増渕竜義の2人は……

 忘れられない光景がある。2008年7月のことだった。

 埼玉・戸田総合グラウンド。2人の若者が力のこもったキャッチボールをしていた。お互いに大きく振りかぶって、容赦のないスピードボールを相手の胸元目がけて投げ込んでいる。ともに無言で、試合本番さながらの剛速球を投げ続けている。それはあまりにも真剣で、周囲の者を容易に近づけさせない鬼気迫る光景だった。このとき、2人の若者が背負っていたのは、背番号《22》と《11》。2年目の増渕竜義と、ルーキーの由規だった。当時、増渕は20歳で、由規はまだ18歳だった。

 このとき、彼らの前には無限の可能性と明るい未来が広がっていた。増渕は06年高校生ドラフト1巡目、対する由規は5球団競合の末に07年高校生ドラフト1巡目でヤクルトに入団。しかし、あれから9年が経ち、状況は大きく変わった。増渕はすでにユニフォームを脱ぎ、由規はプロ10年目、中堅選手の域に差しかかっている。黙々と力強いキャッチボールを行っていたあのときから、かなりの時間が流れていた。

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 プロ入り直後の由規は周囲の期待通りの成長曲線を描き続けた。ルーキーイヤーにプロ初勝利をマークすると、2年目の09年には5勝、3年目には12勝を挙げた。しかし、プロ4年目となる11年9月を最後に、由規はマウンドから姿を消す。12年には右肩痛を発症し、左ひざの剥離骨折を経験し、翌13年には右肩関節唇損傷により、クリーニング手術を受けた。

 当初は「来年こそは神宮のマウンドに」という思いを胸にリハビリを続けたものの、状況は一向に改善せず、ただいたずらに時間だけが過ぎていく。気がつけば4年が経ち、そのまばゆいばかりの光彩は次第に光を弱めていった。こうして15年オフ、由規は支配下枠を外れ、育成契約を結ぶことになった。背番号は慣れ親しんだ《11》から、11に11を掛けた《121》へ。事実上の「最後通告」だった。

完全復活を目指す由規 ©文藝春秋

「原樹理や杉浦稔大よりも下なんだ……」

「育成契約になったことで、ある意味、吹っ切れました。もちろん、“絶対に支配下登録されなければ”というプレッシャーはあったけど、本当ならばクビになってもおかしくないのに、もう1年、チャンスをもらえたことで、“やるしかないんだ”と頑張れました。素直に“自分が一番下なんだ”と思えたから、余計なプライドを持つこともなくなったし……」

 ようやくブルペンに入った由規の傍らでは、当時ルーキーだった原樹理や、当時3年目の杉浦稔大が活きのいいボールを投げ込んでいる。それでも、彼らと自分を比較することもなくなっていた。

「育成契約になったことで、過去の実績も関係なくなりました。だって、あのときの僕はまだ樹理とも、杉浦とも勝負する段階になかったから……」

 そして、16年7月に支配下登録を勝ち取ると、9日の中日戦で1771日ぶりの一軍復帰を果たし、24日、ナゴヤドームの中日戦で1786日ぶりの勝利を挙げ、復活ロードをようやく歩み出した。結局、この年は5試合に先発して2勝3敗という成績に終わった。しかし、シーズン後に話を聞くと、由規は「まったく満足していない」と語った。

「復帰登板ではイニング途中でマウンドを降りてしまったし、その後も、ずっと10日以上の間隔を空けて投げさせてもらっているし、まだまだ本当の復活とは言えません。いつまでも周りの人に気を遣ってもらっているうちは、まだまだです」

 入団以来、彼を見守り続ける伊藤智仁、そして自身も故障に苦しんだ石井弘寿両投手コーチからは、「お前は故障者にとってのカリスマ的存在にならなければいけない」と言われている。それは、「故障しても、あきらめずにリハビリをしていれば、必ず復帰できるのだということを、お前が身をもって示せ」という意味だった。

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