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半世紀以上変わらない広島“東洋”カープの球団名の秘密「とにかくカープは残さなければ…」

『マツダとカープ―松田ファミリーの100年史―』より #2

2022/03/25
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球界を揺るがした“赤嶺旋風”

 ただ、その伏線を作った人物がもう1人存在する。金鯱軍時代に同じ理事として山口と肩を並べていた赤嶺昌志(1896~1963年)である。

 赤嶺は大分県で生まれ、明治大学法学部を卒業後、名古屋新聞社に入社。1936年に同社が「名古屋金鯱軍」を設立したのを機にプロ野球に関わり、一時は球団代表も務めたが、翼軍との合併を機に名古屋新聞社が球団経営から撤退すると、赤嶺はポストを失う。

 ただそこで、同じく記者出身で当時「朝日軍」(後の松竹ロビンス)の球団代表だった鈴木龍二(元国民新聞社記者)から、名古屋新聞社のライバルだった新愛知新聞社を親会社とする「名古屋軍」(中日ドラゴンズの前身)を紹介され、同球団の理事に就任する。

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 戦後、1946年にプロ野球が再開すると、赤嶺は「名古屋軍」の流れを汲む「中部日本」(後の中日ドラゴンズ)の球団代表の座につくが、翌1947年のシーズンオフに監督人事を巡って事実上の親会社だった中部日本新聞社(球団には当時の社主である大島一郎が個人出資)と対立し、解任されてしまう。

 この時、赤嶺を慕う加藤正二(1914~58年)や小鶴誠(1922~2003年)、金山次郎(1922~84年)、三村勲(1924~2010年)、野口正明(1925~2004年)といった主力選手12人が一斉に退団。赤嶺は行き場を失った彼らのために、当時球界進出を画策していた映画会社「大映」の社長である永田雅一(1906~85年)に新球団結成を持ちかけた。

 赤嶺の提案を快諾した永田は大映野球株式会社を設立するが、この新会社は日本野球連盟への加盟が叶わなかったため、加藤や小鶴らは、1948年のシーズンは大映が東京急行電鉄(現在の東急)との共同出資で設立した「急映フライヤーズ」でプレーした。

 大映は急映フライヤーズへの出資を1年で引き揚げ、1948年12月に「金星スターズ」を買収し、「大映スターズ」に改称。永田は念願のプロ野球単独進出を果たした。急映球団設立を巡る東急への橋渡しや旧国民リーグ(戦後、日本野球連盟とは別に存在したプロ野球リーグ)の流れを汲む金星球団の買収に際し、球界事情に詳しい赤嶺が果たした役割は大きかったが、永田は赤嶺が望んだ球団代表のポストを与えなかった。

 失意の赤嶺はちょうどその頃、懇意の鈴木龍二から正力が主導する球団拡張や2リーグ構想など球界の動きを聞く。

 永田に見切りをつけた赤嶺は、球界にアンテナを張り巡らせ、行動を共にする選手と自分をセットで引き受けてくれる球団を探していた。「名古屋金鯱軍」時代の同僚だった山口に広島での球団創設を持ちかけたのも、こうした思惑の一環だった。

 実際、セ・パ両リーグに分裂した1950年のシーズン、小鶴や金山ら「赤嶺軍団」の選手はセ・リーグの「松竹ロビンス」に籍を置いたが、赤嶺はそれに飽き足らず、2年後の1952年のシーズンオフから1953年の年明けにかけ、小鶴と金山、三村の好打者3選手の「広島カープ」へのトレードを画策する。

「このときは、赤嶺君の狙いは、選手を送り込み、自分も代表になる、ということであった」と当時セ・リーグ会長だった鈴木は回顧録に記している。

 この時、カープ側から「代表のことはお断りだが、小鶴らのトレードはご破算にしたくない」と相談を受けた鈴木は赤嶺を呼び「この野心をやめさせた」という。中部日本からの12人一斉退団に始まり、5年にわたって球界を揺るがした“赤嶺旋風”はこれを最後に収束する。