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私設応援団“ツバメ軍団”からの引退…31年ぶりに“観戦”した名物応援団員の1日

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/06/07
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 5月の風が吹き渡る夕暮れどきの神宮球場。二階スタンド席からはグラウンド内が一望できた。右手正面にはライトスタンドが見える。試合開始に備えて、ツバメ軍団が「応燕」の準備をしている。交流戦が始まっていた。ヤクルトファンも、ロッテファンもみな試合が始まるのを、ワクワクしながら心待ちにしていた。

 そんな観客たちの中にスーツ姿の男性の姿があった。彼は、1991(平成3)年、17歳のときにツバメ軍団に入った。野村克也監督の2年目。ライトスタンドには常に名物団長・岡田正泰さんの姿があり、日本中がバブル景気に浮かれていた頃のことだった。

 しかし、今年5月26日の対日本ハム戦を最後に、彼はツバメ軍団を引退した。31年が経過した今、高校生だった青年はもうすぐ50代を迎えようとしていた。通い慣れた神宮球場ではあったが、この日、彼は実に31年ぶりに「一観客として」、ヤクルトナインの雄姿を見守ることとなったのである。

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応援団時代の佐々木誠さん(本人提供)

「なんだか緊張しますね」

 それが、彼の第一声だった。そして、バックネット裏から見るダイヤモンドに対しては「新鮮な景色ですね」と口にした。席に着いてすぐにビールの売り子に声をかける。750円を支払い、黄金色の液体を喉の奥に流し込む。

「球場で呑む、人生で初めて売り子さんから買うビールです!」

 実に美味しそうな表情を浮かべながら、彼は言った。そして、カバンの中から応援用の小さな傘を取り出した。

「さっき、これを買ったんです。ビールを飲みながら、応援団のリードに合わせて傘を振る。これをやってみたかったんです」

 彼にとっての「試合」とは、これまでは「応援団員として」、常にお客さんを盛り上げよう、楽しんでもらおうという意識で見守るものだった。しかし、この日は違う。何も気兼ねすることなく、誰に気を遣うこともなく、「ファンとして」心の底から野球観戦を楽しめばいい。大好きなビールを味わえばいい。彼にとって、何もかも初めて尽くしとなる試合は、こうして始まった――。

名物応援団長・岡田正泰に魅せられた31年間

 内向的な性格だった。現在で言う「ひきこもり」と呼ばれるほどではなかったけれど、元来の性格が引っ込み思案で、社交的ではなく、中学時代にはイジメ経験もあった。そんなある日、家に閉じこもりがちの弟を見かねて、姉が2枚のチケットをプレゼントしてくれた。神宮球場のヤクルト戦のチケットだった。

「確か89年だったと思います。まだ関根潤三監督時代でしたから。このとき、姉からもらったチケットで父と神宮球場に行きました。僕らの席はライトポール際の席でした。試合中、ライトスタンドがすごく盛り上がっていることに気がつきました。その中心にいたのが岡田さんだったんです……」

 彼が口にした「岡田さん」とはもちろん、ツバメ軍団の生みの親であり、ヤクルト名物の傘応援を考案した伝説の応援団長である。ライトスタンドの一角で、岡田さんを中心に大きな盛り上がりを見せている光景に、彼の視線は釘づけとなった。

「とにかくみんなが楽しそうでした。父と一緒に観戦した試合相手がどこだったのか、ヤクルトが勝ったのか、負けたのかも覚えていないのに、岡田さんとその周りのファンの楽しそうな姿は、今でもすごく印象に残っています」

 内向的で消極的な性格だったにもかかわらず、その日以来、彼は一人で神宮球場に通うようになった。現在とは違い全席指定ではなかったので、勇気を出して岡田さんの近くで観戦するようになった。やがて、岡田さんに顔を覚えられた。同時に、熱心なヤクルトファンの知り合いも増えていく。

「みんなが知り合いになっていく感じでした。“仲間しかいない”、そんな印象でした。ようやく自分の居場所ができた。そんな気がしましたね」

 顔なじみとなったツバメ軍団のメンバーから、「そろそろ君も入ればいいじゃん」と声をかけられた。応援団入りすれば、これまでのように気楽な思いで傘を振ることはできなくなり、その代わりに応援旗を振ることになる。迷いはあったけれど、ツバメ軍団入りを決意する。彼が17歳の頃のことだった。以来、31年にわたって「応燕ひと筋」の生活を送ることになるとは想像もしていなかった。

 高校を卒業し、社会人となっても、そんな生活は続いた。岡田さんからは、こんなことを学んだという。

「神宮球場に応援しに来てくれたファンの人たちに何としてでも楽しんでもらい、“また神宮に行きたいな”と、次の試合に足を運んでもらえるような応援を。これだけを教わり、これを目的に続けてきましたね」

 1回裏、山田哲人の先制ホームランが飛び出した。彼は嬉しそうにビールを飲んでいる。買ったばかりの傘を開くことを忘れている。それを指摘すると、彼は慌ててそれを開き、マスク越しに嬉しそうに東京音頭をつぶやいた。

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