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77年、運命の夏

≪東京大空襲≫「どうしたらいいのか……」生死を分けた一瞬の判断

≪東京大空襲≫「どうしたらいいのか……」生死を分けた一瞬の判断

『文藝春秋が見た戦争と日本人』より#3

2022/08/12

source : 文春ムック 文藝春秋が見た戦争と日本人

genre : ライフ, 社会, 歴史

note

 それでなんとか水面に顔を出しましたら、ちょうどそこに運良く船がいたんです。最初に乗せてもらった船とは違う別の船でした。その船の人が私の襟首をつかんで、よいしょー、と引っ張りあげてくれたんで、私はどうにか助かったのです。幸運としか言いようがありません。

 川にはまだ大勢の溺れかけた人々が取り残され流されていたし、さらに言えば、川の中だけでなく、私が逃げて来た向島側の川岸にもまた、たくさんの人が残されていました。少しでも元気のある人は川に飛びこんだんでしょうけれど、それすらかなわない人たちが川岸ぎりぎりのところに大勢いた。

人の体が燃えていく。なんの感情も抱かずに眺めていた。

 たいていが赤子を抱えたり、まだ幼い子どもを連れたりした母親でした。そういう女性たちがなす術もなく、必死の思いで川岸にただただしゃがみ込んでいたのです。

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 船からは、「飛びこめ、飛びこめ」という声がかかってはいましたが、もちろん子どもを抱えた彼女たちにそんなことができるはずはありません。私を助けてくれた船も、もうこれ以上乗せたら沈んでしまうというぐらい、たくさんの人であふれ返っていましたから、実際にはどうすることもできません。彼女たちを横目で見ながら、見て見ぬふりで浮いているしかなかったのです。

 そんな彼女たちに、容赦なく黒煙と猛火が襲いかかります。私は人間の体が燃えていくさまを、ただ黙って見つめていました。

©iStock.com

 おそらく体に火が燃え移るより先に、黒煙を吸い込んでしまって、窒息して意識を失ってしまうのでしょう。黒煙がワァーと押し被さった瞬間に、みんなコロっと倒れてしまう。それから、まるで炭俵が燃えるように、鉋(かんな)クズが燃えるように、人間の体が燃えていくのです。

 女性の髪の毛など、それこそ一瞬のうちに燃え尽きてしまうのです。その様子を私は、ただなんの感情も抱かずに眺めていました。

 それよりなにより、人が死んでいくことより、我が身の寒さの方が気になっていたのかもしれません。びしょ濡れの体に北風が痛いほど突き刺さり、寒くて寒くてブルブルブルブル震えるばかりでした。

はんどう・かずとし 1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、専務取締役、同社顧問など歴任後、作家となる。著書に『日本のいちばん長い日』『聖断』『レイテ沖海戦』『ノモンハンの夏』『幕末史』『昭和史』など多数あり。2021年1月12日、逝去。

≪東京大空襲≫「どうしたらいいのか……」生死を分けた一瞬の判断

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