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後藤 正治
2016/03/14

名経営者の空白の領域に迫る

『小倉昌男 祈りと経営 ヤマト「宅急便の父」が闘っていたもの』 (森健 著)

source : 週刊文春 2016年3月10日号

genre : エンタメ, 読書

「宅急便の父」「行政の規制と闘った男」「名経営者」……クロネコヤマトで知られるヤマト運輸の小倉昌男について語られてきた形容である。会社経営を退いてのちは、巨額の私財を投じて福祉財団を設立した。障害者の自立のためのベーカリーのチェーンをつくり、精神障害者の救済にも関心を寄せた。

 財団設立時、準備室に株券を詰め込んだ紙袋を二つ持って来て、「ただの紙切れだから」といって立ち去ったとある。額面総額二十四億円余。詰まるところカネなど紙切れと思っていた気配がある。

 妻とともに旅をし、俳句をつくり、クリスチャンとして日曜は教会で祈りを捧げる……敬意を払われる人物像も伝えられてきた。

 ただ、経営哲学を説く小倉の著と「福祉の人」の間には乖離がある。重いガンに侵された高齢の身で渡米し、黒人男性と結婚した長女のもとで最期を迎えた。

 小倉その人には視えない空白の領域がある……それを埋めんとして取材行を重ねた結果が本書である。巧みな構成が施されていて、章を読み進むごとに少しずつ空白が埋まっていって、最終章で余すところなくそれが埋まっている。

〈冬草や黙々たりし父の愛〉――小倉の近しい人が、小倉の人生で想起する富安風生の句である。

 小倉は家庭内に重い事情を抱えていた。長女は長く境界性パーソナリティ障害に苦しんできた。妻と娘は衝突を繰り返す。妻は鬱的となり、アルコールに依存していく。小倉は外で八面六臂の活動をしつつ、家に帰るとまた別の修羅が待ち構えていた。妻との二人旅も一人にはできないからであったという。

 声を荒げず、黙って包み込んで見守るのが小倉の流儀だった。心の病にはそれ以外に対処するすべがなかった。小倉の歳月に付着してあるのは静かな抑制された佇まいである。

 妻を失って後、孤独に苦しみ、世話をする女性も現れたが、二人の関係性もまた抑制的である。知られざる空白の部分を垣間見てなお、小倉の人としての香気は少しも減じていない。

 関係者を訪ね、考察を重ね、問題意識に沿って記述していく。ごく正統的なノンフィクション作品である。主人公の香気の作用であるのか、記述もまた抑制されたトーンが漂っている。

 どんな家にも問題はある――。ラストで記されている言葉であるが、その通りだ。大なり小なり、だれしも困難な問題を抱え、荷を背負って坂道を歩んでいく。世の普遍のことわりをいま一度教えてもらったような、そんな感慨が残る。

もりけん/1968年東京都生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学法学部卒業。著書に『就活って何だ』『勤めないという生き方』『「つなみ」の子どもたち』『ビッグデータ社会の希望と憂鬱』『反動世代』など。本作で第22回小学館ノンフィクション大賞の大賞を受賞。

ごとうまさはる/1946年京都府出身。ノンフィクション作家。著書に『天人 深代惇郎と新聞の時代』『言葉を旅する』など。

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