昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

今こそドラゴンズは「打倒巨人」に原点回帰すべきだ――追悼・星野仙一

文春野球コラム ウィンターリーグ2017

2018/01/09

 あれは虫の知らせだったのかもしれない。

 1月6日、いつもなら絶対に目覚めない朝5時半頃、急に目が覚めた。手元にあったスマホを見ると、「星野仙一氏逝去」という見出しが飛び込んできた。

 嘘だろ……?

 阪神、楽天のファンにも星野仙一急逝の報にショックを受けている人は少なくないだろう。しかし、もっとも体の芯を揺さぶられるようなダメージを受けているのは我々ドラゴンズファンだ。心の奥底の大事な部分が粉々に砕けてしまったような。大切な記憶のアルバムが燃えてしまったような。それだけドラゴンズファンが星野と一緒に過ごした季節は、長く、熱く、激しく、底抜けに楽しかった。

“燃える男”“闘将”星野仙一。70年代、80年代、90年代と3つのディケイドにわたって、中日ドラゴンズの顔、象徴として君臨し続けた男。この時期、ドラゴンズのファンだった人なら、星野のプレー、顔、怒声が必ず脳裏に刻まれているはずだ。まもなく46歳になる筆者の最初のドラゴンズに関する記憶は、なぜか星野のホームランだった。テレビの前で歓喜する息子に、父が「ドラゴンズ好きか?」と聞き、筆者は「うん!」と答えてドラゴンズファン歴が始まった。記憶の中でドラゴンズと星野の存在は分かちがたく結びついている。

“ミスタードラゴンズ”の称号は高木守道と立浪和義のものだが、星野仙一はそれ以上の存在だった。巨人ファンがONを同時に失ったようなもの、阪神ファンがバースと掛布と岡田を同時に失ったようなものだと言ったら言い過ぎだろうか。01年にドラゴンズと決別した星野を「別れた女」と表現する人もいるが、「家を出ていった父親」のほうがしっくりくる。「俺にはドラゴンズブルーの血が流れている」と星野は言ったが、それはファンも同じ。星野とファンは血を分けた親子のようなものであり、父を失ったようなものだ。家ではあんなに厳しかったのに、新しい家ではニコニコ。最近は遠くでよろしくやっているところをチラ見するだけだったけど、本当の別れがこんなに早くやってくるとは思わなかったよ。

「俺にはドラゴンズブルーの血が流れている」と語っていた星野仙一氏 ©文藝春秋

巨人戦前は3日間は女体を遠ざけた

 星野が初めてドラゴンズの監督に就任したのは1987年、39歳のこと。高橋由伸が監督に就任したときより若く、まさに“青年監督”だった。藤井淳志が再来年から指揮を取るところを想像してみれば、その若さがわかると思う(そもそも想像できない)。監督就任に際しては、NHK『サンデースポーツ』のキャスターとして培ったソフトなイメージをかなぐり捨て、鬼の形相で選手たちに「覚悟しとけ!」と言い放った。

 監督時代の代名詞は“乱闘”と“鉄拳制裁”。暴力はいけないことだと知りながら、『プロ野球珍プレー好プレー』の星野特集が楽しみだった。みのもんたの「星野だァ~」というナレーションに腹を抱えて笑い転げた。星野ドラゴンズの乱闘は特に巨人戦で牙を剥き、宮下昌己をKOしたウォーレン・クロマティにして「あの男は狂っている」と言わしめた。鉄拳制裁についてのエピソードも数知れず。今となっては信じがたいが、当時の応援団は「鉄拳制裁星野」という横断幕を掲げていた。

 監督として星野が最初に行ったのは「打倒巨人」の再発明だ。

 現役時代の星野が巨人相手に闘志剥き出しで挑んでいったのは語り草。指名の約束を反故にされたドラフトでの因縁から始まり、読売新聞に対抗心を燃やす親会社・中日新聞の姿勢にも影響され、「男は読売に勝ってナンボのもの」と燃えに燃えた。V9時代の巨人打線に立ち向かった際は、内角球を投げ続けて打席の柴田勲らとマウンド上で怒鳴り合っていたというのだから尋常じゃない。現役引退直後は『星野仙一の巨人軍と面白く戦う本』という本まで出しているが(版元は文藝春秋!)、この本によると「巨人戦前は3日間は女体を遠ざけることにしていた」らしい。「巨人戦に勝った後のヒーロー・インタビューは男のエクスタシーだ」という一文も良い。

 しかし、山内一弘監督時代、チームはバラバラになっていた。選手たちの士気も下がり、巨人に負けても悔しさを表さない。評論家だった星野は不甲斐なさを感じ、就任会見での「覚悟しとけ!」発言につながった。そこで監督・星野があらためて掲げた旗頭が「打倒巨人」だ。落合博満の世紀のトレードもその一環である。