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「左のライアン」から「高橋奎二」へ 二軍のアイドルでは終われない

文春野球コラム ウィンターリーグ2017

2018/02/02

 幼い頃、右手と左手にそれ程の差はなかった。父は左利き、兄は右利き。グラブは左右両方がある。右でキャッチボールをさせ、左でキャッチボールをさせ、どちらも同じように投げたという。そうして「ちょっとだけ左」が投げやすかったために、その後彼は左投げになった。

ライアンフォームの原点

「左のライアン」。誰でもそのフォームを一度見れば忘れられなくなったはずだ。頭よりも足を高く上げる投法は、ライアン小川泰弘の上げ方よりも更に大胆に見える。甲子園で優勝を経験し、「左のライアン」「古都のライアン」と呼ばれた投手を知ってはいたが、実際にスワローズのユニフォームを着て投げている様子は、衝撃と言うしかなかった。

 驚くことに、元々体は柔らかい方ではないという。出身の龍谷大平安高には有名な「アップ」があり、時間をかけて行う。ブリッジをしたまま歩けるぐらいでないと、キャッチボールすらさせてもらえない。そんな厳しい練習が生んだ柔軟性なのだ。

 高橋奎二のライアンフォームの始まりは、高校1年の時。左手を骨折し、下半身のトレーニングを徹底した結果、治った時には球速と球威が増していた。さらに先輩投手に倣い足を高く上げるようになってから頭角を現した。その投手はさほどの高さで足を上げるわけではなかったが、高橋は頭の上まで上げるようになった。スピンの効いた球。打ちづらいフォーム。100人超の部員の中で高1からベンチ入りし、甲子園で投げ、優勝に貢献できたのは、そのフォームのおかげだ。スカウトに評価されプロに入れたのも、そのフォームがあったからだと本人も思っているだろう。それだけに、そのフォームを捨てるのは、一大決心だったはずだ。高橋奎二は「左のライアン」から変わることを選んだ。

変更前の投球フォーム ©HISATO

 高橋の二軍での初登板は2016年5月。3回をパーフェクトに抑えた。次の登板が期待されたが、その後の肩痛発症で1年後にまで持ち越された。2017年5月、「中1年」の登板は1回無失点。故障の間のトレーニングで、ストレートの質は上がっていた。球速は球団のガンで150km/hを計測したという。しかしその後の登板は良かったり悪かったりだった。四球を連発する時もあり、打ち崩されたこともある。8月までで10試合に登板し、防御率4.05。決していい成績ではない。神宮でのファーム戦が一番長くて4回2/3を91球。5回100球を投げ切ったことすらない。肩痛と腰痛に悩まされ、8/17を最後に登板はなかった。

 シーズンが終わった10月初め、高橋はブルペンに入り、足を高く上げずに投げ始めた。足を上げないと「気持ち悪い」と言いながら、上げないフォームを試し始めていた。1年目にもフォーム変更を考えたことはあったが、その時は当時二軍にいた石井弘寿投手コーチから「今変えるとまた肩を痛めるかもしれない」と言われ、思いとどまったという。

 10月当初はゆったりと投げていたが、12月にはテンポよく球数を投げるようになっていた。球速や球威は特別変わらないようだ。腰の負担は軽くなるか。制球は良くなるか。試合の中でスタミナを保てるか。答えが出るのはキャンプを終え、実戦で投げてからになる。