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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

山下 久猛
2016/12/10

第23回【誉田八幡宮・応神天皇陵(誉田御廟山)/志紀長吉神社】夏の陣で真田信繁と伊達政宗が激突した地と信繁が戦勝祈願の軍旗を奉納したと伝わる神社

『真田三代』 (火坂雅志 著)

genre : エンタメ, 読書

【誉田八幡宮・応神天皇陵(誉田御廟山)】夏の陣で真田信繁と伊達政宗が激突した地

信繁軍と伊達政宗軍が激突した合戦場の近くに建つ誉田八幡宮。境内には誉田林古戦場跡の石碑が建てられている

●豊臣方が不利となる条件を飲んだ理由

 冬の陣で豊臣方は信繁らの活躍によって、徳川方20万(一説には30万)の大軍を相手に善戦していた。このままいけば徳川方を撃退できるかに見えたが、一発の砲弾で形勢は逆転する。慶長19年(1614)、12月16~19日、徳川方がイギリスから届いた最新型の大砲・カルバリン砲で大坂城を連続砲撃。このうち、城の北側の備前島から放たれた砲弾が本丸の櫓に命中、侍女が7~8人圧死した。これに震え上がった淀殿が講和に大きく傾き、12月18、19日、徳川方と和議が結ばれた。

 この冬の陣の和議には、徳川方と豊臣方の思惑が複雑に入り組んでいた。両者には講和せざるをえない深刻な事情があったのだ。徳川方には総軍勢20万という長陣による各大名の疲弊と食糧不足、加えて戦果のなさがあり、一方の豊臣方には10万の牢人の籠城による火薬の欠乏や食糧調達の不安があった。

 和議の条件の一つとして徳川方から大坂城の二の丸、三の丸、その他の櫓や出城の取り壊しと本丸以外の堀の埋め立てが提出され、豊臣方もこれを了承。しかしそうなれば大坂城は丸裸。次に徳川軍が攻めてきたら容易に攻め落とされることは誰の目にも明らかだっただろう。にも関わらず、なぜ豊臣方はこの条件を了承したのだろうか。

 最近の研究によれば、突き詰めると豊臣方に結集した牢人問題に行き着くという。つまり、徳川方としては、豊臣氏を一大名と認めて穏便に決着を付けるためには、秀頼らの大坂城からの退去と牢人たちの追放が不可欠であった。しかし豊臣氏としては、冬の陣を命懸けで戦い抜き戦果を挙げた牢人衆を追放もできず、かといって与えられる領地もないので召し抱えることもできなかった。そこで、大坂城の「生命線」たる堀を埋められたら、ほとんどの牢人たちは城から退去するだろう。豊臣方はこう考えて徳川方の堀を埋めるという条件を飲んだとする研究者もいる(平山優氏『真田信繁』、笠谷和比古氏『関ヶ原合戦と大坂の陣』など)。

 結果、和議の条件として「文書」で交わされたものは次のとおりである。

1.徳川方は牢人衆を罪に問わない
2.徳川方は秀頼の本領を安堵する
3.豊臣方は淀殿を人質として江戸に下向させなくてもよい
4.秀頼が大坂城を退去すれば、望みの国を与える
5.徳川方は秀頼の身の安全を保証する
(「大日本史料」)

 さらに和議の付帯条件として、

・大坂城は本丸を残して二の丸、三の丸、惣構えを破壊し、本丸以外の堀を埋める。
・大野治長、織田有楽斎より人質を出す
・豊臣方の牢人衆の大坂城からの退去

などが口頭で約束されたと考えられている。

 そして12月23日、大坂城の壊平工事が始まった。当初は、惣構えは徳川方、二の丸、三の丸の堀は豊臣方で埋めることになっていたが、豊臣方が故意に工事を遅らせていたのを徳川方が見抜き、すべて徳川の手によって埋められたという。また、本丸以外の櫓や冬の陣最大の戦果を挙げた真田丸も徹底的に破却された。こうして慶長20年(1615)1月19日、大坂城は本丸だけの裸城にされたのである。

 もう牢人たちの拠り所である、難攻不落と謳われた巨城の姿はどこにもない。次に徳川が攻めてきたらあっという間に落城する──そう確信し、大坂城を後にする牢人たちの数も日増しに増えていった。しかし、豊臣方の思惑と大きく違ったのは、その最終的な数だ。大坂城から退去した牢人は約5万にとどまり、約半数の牢人は残ったのだ。さらに秀頼や淀殿らも大坂城からの退去を拒否。これらのことから大坂夏の陣はそもそも避けられない戦だった……ように見える。しかしそうとも言いきれないと考えている歴史研究家たちもいるという。

 これまでは家康は後顧の憂いを断つために何が何でも豊臣家を滅ぼしたい、そのために大坂の陣を起こしたと考えられていた。しかし最近の研究では、大坂の陣における家康の真の目的は豊臣氏の力を徹底的に削ぐために、秀頼を大坂城から退去させ、一大名に格下げさせることだったという説が有力だ。だとしたら、もし堀を埋めることで牢人たちのほとんどが大坂城から去り、秀頼も退去していたら、豊臣家は滅びずにすんだかもしれないのだ。豊臣家にとっては、自ら全国から集めた牢人衆が逆にお家存続の足かせとなっていたとは皮肉な話だ。