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ともに大洋と日本ハムに所属した高木豊と木田勇、1打席の交錯

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/06/10
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頼りになるサウスポーだった木田

 木田は2年目に10勝を挙げるものの、翌年以降6勝、4勝と1年目の剛腕は鳴りを潜めてしまう。そして85年オフ、ついにトレード宣告。移籍先は奇しくもドラフトですれ違いっ放しだった大洋である。既に31歳。1年目のような活躍は無理だろうとうすうす分かっていても、チビッ子ファンは「あの木田が大洋に来るなんて」と期待に胸膨らませた。ここ数年の左腕充実しまくりのベイ投手陣からは考えられないが、当時は中継ぎの久保文雄以外まともに1軍で投げられるサウスポーがいない時代。先発ローテーションにやっと計算できる左腕が加わる。木田の移籍はそれなりに大きな出来事だったのだ。

 86年シーズンが始まると、木田は時折序盤で打ち込まれることはあっても、多くの登板で緩急を使ったピッチングを見せ、ゲームを作ってくれた。勝敗だけ見ると8勝13敗だが、勝ち星と先発登板29はエース遠藤一彦に次ぐ数であり、QS(先発で6回以上投げて自責点3以下)をマークしながら勝ちがつかない試合が8試合もあった。中には2失点完投で負けがつくケースもあったし、もう少し打線がかみ合えば11~12勝はマークしただろう。この年は171.2回を投げて防御率3.62。13連敗を喫しながらチームが4位で踏みとどまったのは、木田の奮闘あってこそだった。

 しかし古葉新体制となった87年以降、新浦壽夫の加入や不調もあって木田の登板機会はめっきり減ってしまう。それでも中継ぎで数試合好投して迎えた88年8月19日の横浜での巨人戦、木田は久しぶりに先発マウンドに上がる。地上波全国中継の中、木田は粘り強く巨人打線を抑え、なんと9回無失点。しかし大洋も槙原寛己を打てず延長戦に突入する。木田は10回表もゼロに抑えるものの、その裏ついに代打を送られてついにお役御免。最後は延長11回、田代富雄のサヨナラ打で決着がついた。勝ち星はリリーフの中山裕章についたが、木田のこの日のピッチングはかつてのMVP男が最後に見せた意地だったんじゃないだろうか。先日ハマスタのマウンドに上がった木田の姿を見て、筆者は30年前の夏の日を思い出していた。

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 木田は翌89年限りで中日に移籍し、90年に引退。その後はファイターズのOB会長を務めたこともあり、日本ハムの試合では何度か始球式を行っている。でももし、事情が許すならば横浜大洋のユニフォームを着て始球式で投げる木田の姿も見てみたいと願っている。日本ハムファンと同じように、あの頃の大洋ファンにとっても木田勇は本当に頼りになるサウスポーだったのだから。

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