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原爆投下3日後に運転再開。広島は「路面電車の街」である

8月6日を知る"被爆電車"は今も現役

2018/08/06

 広島は「路面電車の街」である。玄関口である広島駅から原爆ドームや安芸の宮島などの観光地はもちろん、八丁堀や紙屋町の繁華街、瀬戸内海へ繰り出す広島港などを結んで市街地を縦横に走る。市民の日々の暮らしから観光まで、広島という町を語る上で欠くことのできない交通機関なのだ。その総距離は、8系統19.0km(その他、広電西広島~広電宮島口間を結ぶ鉄道区間が16.1km)。もちろん日本国内の路面電車では最大規模である。

800形。1980年代から製造された広電オリジナル車両

広島と路面電車と8月6日

 と、ここで他の都市を見渡してみると、広島の路面電車の規模が突出していることが改めてよくわかる。東京都内をかつて走っていた都電は今では荒川線を残すのみだし、名古屋や京都、大阪、福岡などの大都市からはとうの昔に姿を消した。いったいどうして、広島は路面電車の町になったのだろうか。そこには、広島市民たちの路面電車に対する思い、そして1945年8月6日のあの惨禍が深く関係していた――。

瀬戸内の海を臨む宮島線

「広島の路面電車にも、廃止の危機があったんです。それも2回」

 こう話してくれたのは、広島電鉄電車事業本部電車企画部の塩田健信さん。

 最初の危機はご想像の通り、原爆である。広電の路線網が完成したのは、戦時中の1945年。今もその路線網がほぼ維持されている。だが、その路線網完成の直後、原爆に襲われて壊滅的な被害を受けた。

被災者から運賃はもらわなかった

「路線もそうだし車両にも大きな被害がでました。でも、広電の電車は原爆投下から3日後にはやくも一部区間で運転を再開したといいます。それもお金を持たない被災者の方からは運賃を頂かなかったとか。当時の人が、一体どのような思いで復旧作業にあたったのか。それを思うとなんとも考えさせられますね。自身や家族だって原爆の被害を受けているわけですから。それでも、公共交通を担うものとして後先考えずがむしゃらに頑張ったのだと思います」

原爆ドームのヨコを走る1900形

カープと広電は"特別な存在"

 この当時の職員たちの"意地"。それは、市民に大きな希望と勇気を与えたという。広電の復旧のエピソードはその後も広島の学校などで広島カープのエピソードとあわせて教えられ、広島市民にとって"特別な存在"になっていったのだ。原爆投下時に運行していた"被爆電車"は、今も現役バリバリ、当時の惨禍を今に伝えつつ、市民の足として活躍を続けている。